美術鑑賞とオタク

また美術館に行ってきた。

基本的に、美術館に行く時は展覧会のスケジュールをなにがしか調べてから赴くが(当たり前)、今日は端っこの常設展の方に興味があって来たので、メインの展示については毛ほども調べてこず、完全にノリと勢いとついでで鑑賞していた。

今期のメインは、19世紀のフランスの画家たちの展示だそうである。
それは、モネやピサロに代表される、いわゆる"印象派"の登場するより前の画家たちのものだ。
神話や英雄を題材としたアカデミックな絵画技法から、それまで主要なモチーフになりえなかった"風景"という題材を前面に押し出し始めた時期。ブルジョワな階級が憧憬の念を抱く"田舎のノスタルジー"な要素を多分に含んだ絵画が並んでいた。
なんでも、鉄道の普及とチューブ絵具の発明により、アトリエでの制作から外に出て行う現地での制作が可能になり、華やかなパリの街から田舎の郊外に絵を描きにいく機会が増えた事が一因となっているそうである。

ほーんまぁそんなもんか。と歩みを進めていると、農道を歩く夫婦の絵があった。解説を見やると「ここでの2人の夫婦は、実在の農夫を描いたものではなく、自然の中にある半ば形式化された村人という存在の象徴を表したものです」とのこと。
これはアレだろうか。『オタクが聖地巡礼してアニメキャラの幻影を見る』というやつであろうか。
まぁ実際のところアレは楽しい。写真に自分で描いたイラストを明度とか調整しながら合わせるやつだ。19世紀もそういう思考があったのだなと思うとなんだか妙な親近感が湧いた。

そうやって自分に都合の良い幻覚を見ながら半分ほど展示物を見おえたとき、館内放送で「学芸員による美術講義やります」とのアナウンスが入った。
再入場も可能だそうなので、なんかよう分からんがせっかくだし、と軽い気持ちで受けてみることにした。

入り口に案内され、中に入ると結構講義室がデカい。なんか講義用のレジュメまで持たされる。所要時間を確認すると、90分。

……90分!?!?
リズと青い鳥観れるじゃん。

いやしかし、こういう時のために出先で使う用の筆記具は持参してある。鞄から取り出すため鞄の口を開く。

…車に置いて来たわ。何も書けんわ。

恥を知らないので隣の老婦人から1本ボールペンを拝借した。本当にありがとうございます
そうやってグダグダやっていると学芸員の方が現れ、大学生ぶりの講義が始まった。

講義の内容をざっくり説明すると、印象派のモネとバルビゾン派(印象派の前の時代の芸術運動)のコローの絵を体系的に比較する、という内容であった。

歴史的な背景から追っていくと、近代美術への変遷は、ルネサンス期の古典をさらに遡り、古代の歴史に理想美としての価値を見出す"新古典主義"から始まり、そこから理性に反して画家・詩人・音楽家の感受性を前面に押し出す"ロマン主義"の運動と来て、"バルビゾン派"、"写実主義"、そして"印象派"と推移していく。
そもそもバルビゾン派というのは、かつて画家たちのパトロンとして彼らを支援していた王侯貴族たちが、フランス革命や産業革命を契機にその力を弱めた事により、中流階級の人々も画家たちを(作品単位で、という小規模さではあるが)支援できるようになったことで、古典の知識に明るくない彼らが気軽に依頼できる題材としての風景・肖像画を描く人々、という位置づけで誕生した。"バルビゾン"とは芸術の都パリから見て南側に位置する郊外の村の名前であり、多くの画家がそこを訪れたり、あるいは住んだりして郷愁漂う風景画の制作に腐心していた事に由来する。大洗みたいだね。

対して印象派とは、そういった現実の風景に理想を重ねて美しい画面を構成するバルビゾン派とは似ているようで全く異なるのだという。

バルビゾン派の作品は、先の農夫の絵画のように、「ある光景の中に存在する風俗や歴史的・思想的背景を、自身の解釈により解体・再構築し、単なる光景の切り取りに意味や作者の内面を反映させたもの」というものが多いが、印象派のそれはどちらかというと写実主義に近く、古典に代表される客観的で普遍的な「理想」というテーマに対し、極めて主観的な「現実」を描く事に注力されている。
写実主義と印象派の違うところは、前者は「自らの生きている時代の社会環境を正確に、完全に、誠実に描き出す」ところにあるのに対し、後者は、精神としては写実主義と同じ性格を持ってはいるが、彼らが描き出す現実は「いつでも、誰に対してもその客観性を主張しうるような永遠不変のものではなく、たまたまその場に居合わせた者の感覚に捉えられた『現実』」であり、次の瞬間には当の本人にとってももはや存在しないようなうつろいやすいものであった。
印象派の真髄とは、ある場所のある時間、その人が見た一瞬の情景(印象)を、可能な限りそのまま忠実に描く事を至上の命題としたムチャクチャめんどくさい芸術運動なのである。

その事を知ってから改めて絵を観てみる。

ここでは
コローの《モルトフォンテーヌの想い出》と
モネの《ベリールの岩礁》
を比較として挙げる。


理想を追い求めたバルビゾン派の絵は、画面全体が近いもの、遠いもの、明るいところ、遠いところ、などバランスよく配置されており、筆致も理性的に受け入れやすい丁寧な描き込みである。
対して印象派の絵は、構図も全体を敢えて見せず、画面外に続きの存在を想像できる描き方をしており、筆触も近くで見てみると筆でペタペタ塗ったのがまるきり分かる程度には雑然としている。

こうして書いてみると、バルビゾン派の方がウケが良さそうなのは明白であるが、私がここで驚いたのは、そのような(一瞬の"印象"という)視点で見たときの印象派の画面構成が、カメラもまだ碌に発達してない時代に、四角の枠の中でこんな大胆な構図が描けるのかという気づきである。

そして、間近で見るとベタベタで何描いてるかわからん絵も、遠くから見ると途端にちゃんとした1枚の絵となって表出してくる。

まとめると、
この時代の変遷として
主題は「思い出から印象へ」
構図は「全体から断片へ」
場所は「アトリエから郊外へ」
そしてなにより、作品の根幹として「理想から現実へ」という変化が見られる。
しかしながら両者の共通点としては、光の表現の仕方に焦点が向き始めた時代に現れた芸術運動である事であり、そこに今までの歴史画偏重の芸術運動にない、ものを描く事への新たな視点が窺える。との言葉で講義は締め括られた。

正直な話、ここまで本格的な講義を予想していなかったので完全に虚を衝かれた気分であったが、せっかくの大学以来の学びの場であったので忘れないように記しておく事にした次第である。ホームに書いてるとおり、このエッセイは備忘録兼随想録なのである。

その後はボールペンを老婦人に返却し、感謝の意を伝えた後、本来見にいくつもりだった常設展をチラッと見て終わった。しかし明らかに大半の時間を費やしたのはメイン展示の方である。疲れた……

帰りに車中で見た湖の水面のきらめきが、なんだか芸術的なそれに見えた。

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