少女とクマとの哲学的対話「『白熱教室』を読んで 3」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
哲学教授……「ハーバード白熱教室」のような哲学の授業を行いたいと思っている哲学教授。

哲学教授(以下「哲」)「どうも『白熱教室』のようにはいかないな。私が未熟なせいか……」
クマ「あるいは、ボクらがあまりいい生徒ではないからかもしれないね」
「いや、そんなことはないと思います。しっかりと教えることができないということは、わたし自身ちゃんと理解していないということでしょう」
クマ「そうかい、じゃあ、一緒に考えていくことにしよう。次の話に進んでもらってもいいかな」
「分かりました。しかし、ここで一つ、『功利主義』という考え方を紹介しておきましょう。以前の二つのお話は、この功利主義に関わりがある話だったのです」
クマ「お願いするよ」
「功利主義というのは、ジェレミー・ベンサムという哲学者が体系化したものなのですが、『最大多数の最大幸福』という標語に現われているように、社会全体の幸福の最大化を目指そうという考え方のことを言います」
クマ「功利的というと、日本語だと、利益のことしか考えない、ちょっとずるがしこい態度という感じがあるけれど、そういうことではないわけだね」
「はい、違います。社会に属する各人の幸福を足し合わせたときに、それを最も大きくしようとする考え方のことです」
クマ「なるほど。まあ、何が幸福なのかというのは、人によって違うところがあるけれど、大体にして一致するところも大きいからね。たとえば、病気よりは健康とか、貧乏よりは裕福とか、一人でいるよりは友だちや家族といるとかね。もしも、一人一人の幸福というのが、まったくバラバラのものなんだ、という考え方をすると、こういう功利主義なんていう考え方をする必要はなくなってしまう。それぞれがそれぞれに自分の幸福を追い求めれば、自然と社会全体の幸福が増大することになるからね」
「そうですね。しかし、問題の一つは、社会全体の幸福が増大するという、この『全体』という点にあります。たとえば、『白熱教室』の中では、このような話が紹介されています」

アメリカの自動車会社フォードで、ピントという車が発売されました。この車は燃料タンクが後方にあって、後ろから追突されると、炎上して車に乗っている人が怪我を負ったり死亡したりする危険がありました。車の安全性を向上させる要望がメーカーに出されていましたが、メーカーはそれを取り上げませんでした。というのも、ピント全車の安全性を向上させるために払わなければならい費用よりも、ピントに乗った人が怪我を負ったり死亡したりしたときに支払う損害賠償の費用の方が安かったからです。

クマ「ありそうな話だね。功利主義の立場から言えば、ピントの安全性を向上させるために払われる費用が、ピントの事故による損害賠償費用よりも高いわけだから、そんなことはすべきではないということにもなりかねないね」
「そうなりますね」
クマ「しかし、殺されたり、怪我を負わされたりする方はたまったものじゃないよね。彼ら自身にとってもそうだし、彼らの家族にとってみれば、いくら家族の怪我の治療の費用とか、死亡したときの賠償をしてもらったところで、それでいいです、というわけにはいかない」
「そういうことになります。人の命が経済的に判断されてもいいのか、というのが、ここで提起されている問題です」
アイチ「でもさあ、そもそも、どうして、人の命を経済的に測るなんてことをするんだろう」
「どういうことかな?」
アイチ「よく人ひとりの命は地球より重いなんていう言い方がされるけど、そうだとすると、お金には換えられないわけだよね?」
「そうだね。それをお金に換えてもいいのかというのが、ここの問題なんだ」
アイチ「そうなんだけど、わたしが疑問に思っているのは、その前の段階で、そもそもどうしてお金に換えられないものが現にお金に換えられてしまっているのかっていうことなの。できないものが、どうしてできているのか」
「それは、ここで言う、『換えられない』っていうのは、『換えることができない』ということではなくて、『換えるべきではない』っていうことだからだろうね」
アイチ「でも、そうすると、ちょっとおかしなことにならないかな。『人の命はお金に換えるべきではない』っていうルールがあって、でも、これって現にみんなに破られているわけでしょ。別にそのフォードの話じゃなくても、たとえば、人を事故によって死なせてしまったときにお金で賠償することや、人が死んだときに保険金が支払われる死亡保険なんかも、『人の命はお金に換えるべきではない』っていうルールを破っていることになるよね。お金に換えているわけだから。そうして、それらが制度として定着しているってことは、世の中のほとんどの人がそのルール破りを認めているってことでしょ。それにも関わらず、『人の命はお金に換えるべきではない』っていう主張をすることには、どんな意味があるんだろう。もちろん、『人の命はお金に換えるべきではない』って、心の底から思っている人がいて、現在、そうなっている制度を否定したい人にとっては、意味があるとは思うけど。大多数はそうではないわけだから」
「いやいや、個人の損害賠償や、死亡保険の話とはちょっと違うんじゃないかな。今は、社会的に影響力の大きい企業の話なんだから」
アイチ「だとしたら、『人の命が経済的に判断されていいのか』っていう問題設定は間違っていると思う。そうじゃなくて、たとえば、『社会全体に影響を与える企業や政府の方針の中で、人の命が経済的に判断されていいのか』っていう問題にすべきじゃないかな」
クマ「確かに、アイチの言うとおりだね。『およそ人の命が経済的に判断されていいのか』っていう問題設定には、あまり意味は無い。なぜなら、そんな問いには普通、『よくない』と答えるしかないからだ。『いい』なんて答えたら、人間性を疑われるからね。だから、問題はそんなことじゃなくて、本来『よくない』ものが、企業とか政府とか、時には個人の場合にも――これは別に損害賠償や保険じゃなくたっていいさ、たとえば、時給800円でアルバイトするっていうときにはだよ、1時間という命の一部を800円というお金に換えていると考えることもできるよね――現になされてしまっているのか、これがどうしてなのかって、ことだね」
「それは、しかし、そうしないとしょうがないじゃないですか。人の命をお金に換えることはできません。できませんが、現に人の命が奪われたときに、たとえば、いくら謝罪してもらったところで、家族にとっては何の意味もない。せめて、お金で賠償してもらわないことには」
クマ「どうして、せめてお金でっていう話になるのかな?」
「それは……資本主義社会だからでしょうか。お金中心の社会だからです。しかし、だからと言って、なんでもお金に換算するというのは間違っている。これは、あくまで『せめて』という話でなくてはいけないんですよ。フォードのように、『積極的に』人の命をお金に換算するなんていうことはしてはならないのではないでしょうか?」
クマ「企業が何か計画を立てるときには、それによって利益が出るかどうかを当然に考えるよね。リスクとリターンを計算して、採算が合うかどうかを考えるわけだ。そのときに、リスクの一つとして、その計画によって人が死亡したときのことも考慮するよね。電子レンジだって人が死ぬ世の中なんだから、車だったらなおさらのことだ。それは、企業だったら当然にそうすべきことであって、そこに『せめて』も『積極的』もないんじゃないかな」
「では、あなたは、大企業や、あるいは政府が、人の命をお金に換算することを是認するというのですか?」
クマ「ボクはヌイグルミだから、人の社会がどうであっても、究極的には関係が無いわけだけれど、でも、現に人の社会がお金で回っているのであれば、人の命についてもお金に換算しないとどうしようもないんじゃないかな。そうして、もしも、人の命をむやみにお金に換算するのをやめさせたいというのであれば、人の命の価値をできるだけ高く見積もればいいんじゃないか? フォードの例で言えば、ピントの安全性を向上させるためにかかる費用が、ピントの事故による費用よりも安く済めば、フォードも安全性の向上に向かったはずだしね」
「しかしですよ、人の命がお金に換算できるとすると、多数者が少数者を虐げる社会になってしまいませんか。たとえば、さっきの海難事故の例ですと、一人の犠牲のもとに三人を救うことが、常に認められてしまうことになります」
アイチ「多数者が少数者を虐げる社会になってしまうって言うけど、今のこの社会だって、現にそうなっていると思うよ」
「どういうことだい。確かに、不公平な社会かもしれないけれど、少なくともそれを許しちゃいけないんじゃないかな。差別的な措置があるかもしれないが、それはできるだけ是正していかなければ」
アイチ「でもそれは、まず不可能だと思う。だってさ、たとえばだけど、ここにいじめがすごく好きな子がいるとするよね。他人をいじめることがすごく好きで、それに生きがいを感じている子ね」
「…………」
アイチ「でも、その子って、いじめが悪いこととされている今の社会では、他人をいじめることってできないわけでしょ。本当に自分が生きがいを感じることを。少なくとも、しにくくはなっているよね」
「いや、そういうことは、また別の話じゃないか。いじめに生きがいを感じるなんていうのは、それは、精神的な疾患があるということじゃないか」
アイチ「あることを病気にするのは、健康がどういう基準かによると思うけど、その基準それ自体が健康だっていうことはどうすれば分かるんだろう」
「いったい何を言っているのか……」
クマ「まあ、今はそういう非道徳的行為に快楽を覚える人はいないということにしておこう。それでも、問題は特に減りはしないしね。ところで、先生は、車に乗っているかい?」
「え、ええ、乗っています」
クマ「年間の交通事故死者数が、どのくらいか知っているかな?」
「さあ……5,000人くらいでしょうか?」
クマ「2019年では、3215人だった」
「そうですか」
クマ「この自動車交通というシステムは、非常に、非道徳的なシステムだと言えるんじゃないかな」
「どういうことでしょうか」
クマ「だってだよ、このシステムがある限り、どうしたって、交通事故死というのは出るわけじゃないか。ゼロにするわけにはいかない。このシステムを採用しているということは、人の命よりも、この自動車交通の利便性を優先していることになる。そうして、当然に、車なんて無ければいいのにと思っている人だっていることだろう。にも関わらず、このシステムがあるということは、それは、すなわち、車なんて無ければいいのにと思っている少数者より、自動車交通を認めている多数者を優先しているということにならないかな?」
「そ、それは……極論じゃありませんか?」
クマ「おや、トロッコ問題とか、海難事故の例とか、極端な例を持ち出したのは、そっちの方だと思うけど」
アイチ「同じことは、学校教育にも言えると思う。2018年の小中学校の不登校児の数は、約165,000人。この数の不登校児を犠牲にして、小中学校教育のシステムは回っているって言えるでしょ。これなんかも、多数のために少数を犠牲にしているシステムの一つだと思う」
クマ「社会システムを作るということは、必然的に、多数者にとって都合のいいものにならざるをえないんだ。そんなことも分からずに、今さら、『多数派のために少数派を犠牲にしていいものだろうか』なんていうことを議論するのは、本当にバカバカしいと思うよ。だって、現にそうやって議論しているその人たちがすでにその社会システムの中にいて、そのシステムから恩恵を享受しているんだから」
「いや、しかし……それが不公平であって、是認できないものであるという、この気持ちは、ではどこから来るんです? そういう気持ちがあるのは、わたしだけではないと思いますが。どうしても、『多数派のために少数派を犠牲にしていいのか』という問いを出したくなってしまうのですが」
クマ「いいかい。こういう、『多数派のために少数派を犠牲にしていいのか』っていう問いはね、多数派と少数派のどちらから上がるか分かるかい? 決して少数派からじゃない。だって、仮にこういうことを少数派が言ったとしてもだよ、そんなものはどこにも届きはしないんだよ。それが、少数派ってことの意味なんだからね。もしも、それが届いたように見えたら、それを何らか利用したいと思っている多数派のしわざであって、今この社会には現に届いていない少数派の声なき声がいくらでも存在するのさ。そうして、それこそがね、多数派が少数派を犠牲にしているっていうことの本当の意味なんだよ」

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