少女とクマとの哲学的対話「雪は存在しない!」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
現代哲学者……新実在論を支持する哲学者。

現代哲学者「現代哲学の潮流は、新実在論にあります。マルクス・ガブリエルがその筆頭ですね。彼は、新実在論の若き担い手として、本質主義と相対主義を止揚しようとしている。ハイデガーから始まる実存主義を、フーコーが構造主義によって乗り越え、さらにそれを、デリダが脱構築によって克服することによってポスト構造主義を打ち立てた。そうして、いよいよ、今度はこのポスト構造主義を打ち捨てて、新しい実在論が築かれようとしているのです!」
アイチ「ごめん、何を言っているか、さっぱり分からないんだけど」
現代哲学者「それは、まあしょうがない。一般のしかも高校生に、知の最前線で起こっていることを理解しろという方が酷な話だよ」
アイチ「哲学っていうのは、この世界の真理について考える学問だよね?」
現代哲学者「そうだよ」
アイチ「真理って変わらないからこそ、真理って言うんでしょ? それなのに、どうして、その何とか主義を何とか主義が乗り越えて、また何とか論が築かれるなんていうことになるの?」
現代哲学者「真理というのは一つだけだが、まあ、その真理へのアプローチが違うということだね」
アイチ「その何とか論っていうのが、最新のアプローチの仕方なの?」
現代哲学者「『新実在論』だよ。そうさ、それが今のトレンドだよ」
アイチ「だとするとさ、いずれ、その『新実在論』っていうのも、また新しい考え方によって乗り越えられることになるんだよね?」
現代哲学者「……それは、まあ、哲学の歴史が続く限りは、いずれはそうなるかもしれないね」
アイチ「だとしたら、その『新実在論』っていう考え方は間違っていることになるんじゃないの?」
現代哲学者「いやいや、そういうことじゃないよ。今現にこの世界について考えるときに、真理を知るために最も有効なのが、この新実在論なんだよ。これが今は正しい考え方なんだ」
アイチ「でも、たとえば、100年後にはそれ以上に優れた考え方が出てくるわけでしょ?」
現代哲学者「だとしても、この『新実在論』を乗り越えて生まれ出てくる考え方なわけだよ」
アイチ「うーん……わたし、あんまりそういうのに興味無いかも」
現代哲学者「哲学に興味が無いのかな。これからの時代を担う若者には、哲学は必須だよ」
アイチ「考えることは好きだけど、わたしは、本当のことを知りたいと思って考えているだけで、えーっと、その『新実在論』だっけ? それについて考えたいとは思わないかな。だって、いずれ間違った考えになるだろう考え方なんて、考えてもそれほど意味があるとは思えないもん」
現代哲学者「何を言っているんだ。現代哲学の結晶が、この『新実在論』なんだよ。これを考えるということが、世界について、真理について考えることなんだよ」
アイチ「その『新実在論』じゃないと、真理について考えられないの?」
現代哲学者「そうさ」
アイチ「そうかなあ。そうなの、クマ?」
クマ「いや、そんなことはないさ。何とか主義とか何とか論とか、そんなものが先にあって、ものを考えるわけないじゃないか。そういう考え方が、いわゆる、学者バカというやつさ」
現代哲学者「失礼なヌイグルミだな。きみは、現代哲学の潮流というものが何も分かっていない。時代は常に先に進んでいるんだ」
クマ「なるほど、でも、もしもそうだとしたら、キミが先に名前を挙げた、ハイデガーやフーコー、デリダという人たちは、今よりも遅れた考え方をしていたことになるね?」
現代哲学者「その意味では確かにそうだ。いや、彼らはそれぞれ偉大な哲学者だよ。しかし、現代と比べれば、彼らの考え方は未熟だったと言わざるを得ない」
クマ「そうすると、もっと昔の、たとえば、ヘラクレイトスやソクラテス、プラトンなんて哲学者の考えていたことは、今からすれば、2,500年分、遅れていたってことになるんだろうね」
現代哲学者「まあ、そうなるかな」
クマ「プラトンのイデア論なんていう考え方はもう流行らないんだろうね?」
現代哲学者「プラトンのイデアか。なつかしい響きだな。昔、わたしもこの道を志したときに、老齢の教授から習ったことがある」
クマ「プラトンのイデア論というのが、ある言葉がその言葉の意味を表わすという不思議を解決するために唱えられたものだっていうことなんて、キミには言うまでもないことだろうけど、この不思議は解決されたのかな?」
現代哲学者「なんだって?」
クマ「『美しい』という言葉は、どうして、『美しい』という意味を表わすのだろうか。現代哲学によると、それは、どのように説明されるのかな?」
現代哲学者「ある言葉がその意味を表わすことには、必然性が無いということは、ソシュールが看破したことじゃないか」
クマ「いや、ボクが言っているのは、そうして、プラトンが不思議に思ったのは、そういうことじゃない。ある語がその語であったことに必然性があるかどうかなんてことじゃなくて、ある語がその語の意味を持つのは、どうしてなのかということなんだよ。『美しい』という語によって、どうして、『美しい』ということ以外の意味を表わすことができないのか」
現代哲学者「いったいきみは何を言っているんだ?」
クマ「これが分からないってことは、プラトンの問いが分からないってことさ。その問いが分からないのに、その問いに答えようとするイデア論が分かるはずがないね」
現代哲学者「失敬なヌイグルミだな。仮に、わたしがプラトンの問いとやらを理解していなかったとしても、それは次のアリストテレスによって乗り越えられて、以下、連綿と続いてきた哲学の歴史の果てに、現代哲学があるわけだよ。それを理解できていれば、それが全てなのだ」
クマ「それじゃ、その、現代哲学の結晶である新実在論なるものがどのようなものなのか、説明してくれないかな。分かりやすくお願いするよ」
現代哲学者「いいだろう。たとえば、今朝は雪が降ったが、この雪というものを見るとき、『新実在論』では、雪そのものなど存在しないと考える。どういうことかと言えば、雪を見るときは常に誰かがそれを見ているわけであり、特定の人の視点からそれを見ることになるからだ。きみは、雪は好きかな、お嬢さん」
アイチ「好きだよ。綺麗だから」
現代哲学者「わたしは嫌いだ。車の運転に都合が悪いからね。このように、同じ雪を見ているようであっても、わたしときみでは見方が違ってくるわけだ。わたしにとっての雪、きみにとっての雪というようにね。しかし、これは、単にわれわれが別々の見方で雪を見ているというだけにとどまらない話であり、わたしにとっては雪というのは、運転にとって都合が悪いものという『意味の場』にちゃんと存在しているということになる。対して、きみにとっての雪は、綺麗なものという『意味の場』にちゃんと存在しているわけだ。真の雪そのものなどというものはどこにもなく、雪というものは、この無数の『意味の場』、すなわち実在的な見方の、交差するところにしか存在しないと考えるわけだよ」
アイチ「うーん……」
現代哲学者「これでもまだ難しかったかな」
アイチ「ううん、言いたいことは分かった気がするけど、でも、問題はそんなことなのかなあって思って」
現代哲学者「どういうことかな?」
アイチ「わたしにとっての雪とあなたにとっての雪が、同じ雪か違う雪かなんてことより、もしも同じだとしたらどうして同じになるのか、もしも違うとしたらどうして違うことになるのか、その方が問題だと思うけど。わたしとあなたが見ている雪が、その『意味の場』によって違うのだとしたら、その『意味の場』っていうのはどうして成立するの? それに違うって言っても、一致する場合もあるよね。たとえば、わたしの友だちにも雪が綺麗だから好きだっていう子がいるよ。そうすると、どうして、それぞれが独立に持っているはずの『意味の場』が一致することがあるの? 一致するとしたら、独立に持っているっていうことの意味が無くなるような気がするけど。そもそもさ、わたしにとっての雪とか、あなたにとっての雪っていう言い方自体が、まず雪そのものっていうものが先にあることを前提しているような気がどうしてもするんだけど、雪そのものが無いとしたら、それがあるっていうこの感覚はどこから生まれるの?」
現代哲学者「…………どうもきみは何か混乱しているようだね」
アイチ「何も混乱なんてしてないと思うけどなあ」
現代哲学者「いや、大いに混乱しているようだ」
アイチ「そうかなあ。まあ、今言ったことが分からないっていう意味では、混乱しているって言っていいかもしれないけど」
クマ「もしもアイチの問いにその新実在論が答えられないんだとしたら、その限りにおいて、それは役に立たないっていうことになる。そうして、もしも答えられる考えがあるとしたら、それは必ずしも新実在論である必要は無い」
現代哲学者「きみは現代哲学の成果を否定する気なのか!?」
クマ哲学に成果があるとしたら、それは、ある問題について答えを与えてくれたということじゃなくて、新たな問いを開いてくれたという点だよ。哲学説が先にあってものを考えるわけじゃない。あるものを不思議に思って、その不思議を何とか乗り越えようとして、その結果、生み出されたものが哲学説なんだ。しかし、それは決して答えじゃないんだ。答えたいという欲求にすぎない。哲学説の正誤なんていうのはバカげた話さ。実存主義と構造主義のどちらが正しいかなんていうのはくだらない。意味があるのは、実存主義と構造主義はそれぞれどんな問いを新たに開いたのかということだよ。さあ、それじゃあ、新実在論は一体どういう問いを新たに開いてくれたのか、それを聞こうじゃないか」

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