少女とクマとの哲学的対話「『白熱教室』を読んで 4」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
哲学教授……「ハーバード白熱教室」のような哲学の授業を行いたいと思っている哲学教授。

哲学教授(以下「哲」)「では、どうして、多数派は、『多数派が少数派を犠牲にしていいのか?』などという問いを立てるのでしょうか。そんな問いは立てない方が、多数派のためになりませんか? あるいは、それは少数派を納得させるためでしょうか」
クマ「まだ分かっていないようだね。多数派が少数派を納得させる必要なんてないんだよ。少数派というのは、多数派がすることを納得して受け入れざるを得ないからこそ、少数派なんだから。だから、『多数派が少数派を犠牲にしていいのか?』なんていう問いを多数派が立てるのはね、多数派が少数派を犠牲にしてもいい根拠を明確にして、多数派である自分たちが安心するためさ。宗教における護教論のようなものだよ」
「いや、それはちょっと違うと思いますね。人間は、そのように自己利益のことばかり考える、卑小な存在ではありませんよ」
クマ「こういう問題をね、好奇心に従って一人で考える、というなら、そうも言えると思うよ。でもね、そうじゃなくて、こういう問題をわざわざ大勢で、現に多数派である彼らがだよ、表立って議論するということの中にね、ボクはどうしようもなく、腐臭を感じるんだな。何かまっとうなものが汚されているような感じを抱くんだよ。まあ、これはボクの哲学的直観とでも言うべきものだから、それはそれだけのことなんだけどね。よかったら、話を進めてくれないかな」
「分かりました。『白熱教室』ではこのあと、人間の幸福には質的な違いがあるのではないだろうかという議論が始まっています。もしも、質的な違いが無くて量的な違いしか無いとすると、社会全体の幸福を最大化するというときに、量の面にしか目が行かず、仮に低劣な幸福を受け取る人間が多いときに、その低劣な幸福を増大させることを認めることになってしまうからです。幸福、すなわち喜びには、高級なものと低級なものがあるのではないかということですね」
クマ「なるほど。たとえば、同じ本を読むにしても、文学書や哲学書を読むのは高級な喜びに、マンガを読むのは低級な喜びにあたると、そういうことかな?」
「そういうことになりますね」
クマ「それは本当だろうか。ボクは、文学書や哲学書も好きだけれど、マンガもすごく好きでね。その二つを読むときの喜びには確かに違いがあって、種類の違いは感じるけれど、前者の方が高級で、後者の方が低級だ、なんてことは、考えたこともないけどね」
「それはあえて考えたことがないということであって、考えてみたら、そのように結論づけられるのではないですか?」
クマ「そうかなあ……たった今、考えてみても、どうもそんなことにはならないと思うよ。そもそも、何をもって、『高級』とか『低級』とか、言えるだろうか。どうして、シェイクスピア作品は高級で、マンガは低級なんだろうか」
「それは、やはり、長い年月に耐えているかどうか、ということではありませんか? シェイクスピア作品は、400年という時間に耐えて、今でもなお読まれています。対して、これから400年後まで読まれるようなマンガがありますか?」
クマ「そんなことは分からないじゃないか。もしかしたら、400年後まで読まれるマンガもあるかもしれない」
「あるいは、教育ということも関係するかもしれません。シェイクスピアの奥深さを知るには、それ相応の教養が無いといけませんが、マンガを読むのには教養はいりません」
クマ「しかしね、教授。どうして、教養が無いと分からないものの方が、高級ということになるんだろうか。そんなものが無くたって分かるものの方が、高級だとも言えるんじゃないかな。山口県に、『獺祭』という日本酒を造る、旭酒造という酒蔵があるんだけどね、ここは、真に美味しい酒は通でないと分からない酒ではなく誰が飲んでも美味い酒だ、と言い切っているよ。そして、現に世界に通用する日本酒を造っている」
「では、あなたは、シェイクスピア作品とマンガを比べたときに、そこに優劣は無いと言うんですか?」
クマ「シェイクスピア作品とマンガを比べるって言うけれど、それはたとえば、それをどちらかしか読んだことが無い人にも、妥当するんだろうか。アイチ、シェイクスピアを読んだことは?」
アイチ「『おお、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?』『尼寺へ行け!』くらいなら知ってるけど、ちゃんと読んだことはないよ」
クマ「これから、シェイクスピアを読む機会はありそうかい?」
アイチ「誰かに特に勧められるようなことがあれば読むかもしれないけど、もう読まないかも」
クマ「ずっと?」
アイチ「もしかしたらね」
クマ「マンガはよく読んでるよね」
アイチ「生活の一部だね」
クマ「聞いたかな、教授。アイチは、シェイクスピアはもう読まないかもしれないと言っている。『もう』どころか、一度も読んだことのない人も大勢いるだろうね。対して、マンガを読んだことがある人は大勢いると思うけど、こんな風に、マンガは読むけど、シェイクスピアは読まないって人にとっても、やはり、シェイクスピアを読むことの方が高級だって言えるのかな?」
「どのくらいの人数が現に読んでいるかということは、その作品の価値とは関係ないと思いますね」
クマ「しかしだよ、シェイクスピアを読まない人に対して、『シェイクスピアは素晴らしい、ぜひ読むべきだ』と勧めるのは、これは余計なお節介ということにならないだろうか」
「ちょっと待ってください。作品に価値があることと、その作品を他人に勧めるということは別の話じゃありませんか」
クマ「だとすると、この、高級な喜び、低級な喜びというのは、一体なんの話をしているのかということになるよ。喜びに、高級なものと低級なものがあるということを決めるということは、当然に、社会は高級なものを選択すべきで、低級なものを排除すべきだということにならないかな? シェイクスピアが高級で、マンガが低級であると認定するということは、みんなができるだけシェイクスピアを読んで、マンガを読まない社会の方が、幸福度が上の社会ということになる。だから、それを目指すべきだということになるじゃないか。それは、すなわち、今シェイクスピアを読んでいない人に対して、シェイクスピアを読もうと勧めることになる」
「それは、確かにそうなりますね……」
クマ「ボクには他の疑問もあるんだけどね、そもそもが、二つのものに優劣をつけるときに、基準を立てるわけだけれど、その基準を立てるという行為自体は、基準を立てないという行為と比べて、優れているのかな、それとも劣っているのかな?」
「すみません、おっしゃっていることがよく……」
クマ「シェイクスピア作品とマンガを比べたときに、そこに優劣をつけたわけだけれど、優劣をつけるという行いは、優劣をつけないという行いと比べて、優れているのか、劣っているのか。もしも、優れているとしたら、どういう点で優れていると言えるのか。もしも、劣っているとしたら、それなら、そんな優劣をつけるなんていう行いはすべきじゃないってことになる」
「ちょっと待ってください。優劣をつける、と言いますが、優劣はあるんですよ。つけるものではありません」
クマ「それは、あらゆるものにあるのかな?」
「あると思いますね」
クマ「だとすると、人間にもあるということになるね。優れた人間、劣った人間といったように」
「それは飛躍しすぎじゃないですか。今言っているのは、人の持つ喜びについてのことなんですから。人間には優劣なんてありませんよ」
クマ「しかし、だとすると、おかしなことにならないかな。文学作品というのは人間によって生み出されたものだよね。優劣の差が無いはずの人間が作った文学作品が、どうして優劣の差を備えることになるのかな?」
「ですが、実際に、作品に優劣はありますよね。あなたのお好きなマンガの例でも結構ですが、あるマンガは面白く、また別のマンガは面白くないということが現にあるでしょう? 前者は優れていて、後者は劣っているということになりませんか?」
クマ「あるマンガが面白く、また別のマンガが面白くない、ということは、確かにあるよ。しかし、それはボクがそう思っているだけのことで、違う人が読んだらまた違うことを考えるかもしれない。ボクは、ボクがそう思っているということだけで、ボクが面白いと思うマンガの方が優れていて、ボクが面白くないと思うマンガの方が劣っている、なんて判断してもいいのかな?」
「では、あなたは、物事に客観的な価値など無いと言うのですか?」
クマ「客観的な価値なんてものは無いよ。価値なんてものは、それを価値だと思う主体が存在しなければ、存在しないんだからね。だから、価値というものは、本来すべて主観的なものさ。でも、もちろん、なぜだか多くの人が、あるもののことを価値だと思っているということは認めるよ。そういうもののことを、公共的な価値とボクは呼びたいね」
「それは、危険な考え方ではないでしょうか。仮に、その公共的な価値というものが間違ったものである場合、すなわち、みんなが価値だと思っているものが道徳的に見ておかしい場合に、修正ができなくなるんじゃありませんか? たとえば、『白熱教室』では、古代ローマの例が挙げられています。古代ローマでは、ローマ人は自分たちの娯楽のために、キリスト教徒を猛獣と戦わせていました。古代ローマ人は、自分たちの娯楽のためにキリスト教徒の命をもてあそぶことを、あなたの言う公共的な価値としていたわけですが、これが許されないことは、火を見るよりも明らかではありませんか」
クマ「火を見るよりも明らか、と言うけれど、それは、現代の基準に照らせば、ということになるよね。現代の『全ての人命を尊重しなければならない』という考えによれば、それが許されないということだよね?」
「しかし、公共的でいいんだということになると、今後、そのような考え方が現われたときに、修正をすることができなくなります」
クマ「なぜ?」
「だって、そうじゃありませんか。再び、大勢の人が、自分たちの楽しみのために人命を犠牲にしても構わないと考えるようになったら、それを止めることはできなくなりませんか?」
クマ「実際に止めることはできないかもしれないけれど、君が人命尊重ということを訴えて、それを止める行動に出ることには、十分な合理性があるよ」
「どうしてそんなことが言えるんですか? そのときは、わたしの方が公共的な価値に逆らっていることになるというのに」
クマ「経緯はどうであれ、ともかくもいったん成立した価値っていうのはね、その成立の過程で合理性を備えるのさ。価値の合理性というのはね、そこにそうして現に成立していることで保証されているんだよ。だから、『どうして人命を尊重しなければいけないのか』という問いはね、現に人命尊重という価値観が存在している世の中では実は無意味な問いなんだよ。『どうして人命を尊重しなければいけないのか』という問いの答えは、『人命尊重という価値観が存在しているからだ』ということになるわけだね」
「ちょっと待ってください。そうすると、シェイクスピア作品がマンガよりも価値があるというのも、すでにそれが成立しているということが、その価値の根拠になりませんか?」
クマ「シェイクスピア作品に価値があるということ、マンガにも価値があるということ、この二つはいいけれど、その二つに優劣があって、シェイクスピアの方がマンガより優れているというのは、公共的な価値になっているのかどうか、そこは、ボクは疑わしいと思うね」

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