少女とクマとの哲学的対話「『白熱教室』を読んで 1」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
哲学教授……「ハーバード白熱教室」のような哲学の授業を行いたいと思っている哲学教授。


哲学教授(以下「哲」)「いや、『白熱教室』は素晴らしい。あれこそ、哲学の講義の真髄ではなかろうか。単に、これまで唱えられてきた哲学説を紹介するのではなく、その考え方を参考にし、対話形式で議論することで、生徒に、考えることの楽しさと重要性を教える。あんなに素晴らしい講義はない」
クマ「随分と『白熱教室』を買っているんだね」
「わたしの理想とする講義ですよ。ご覧になったことはありますか?」
クマ「いや、無いよ」
「だったら、ご覧になった方がいいと思いますね。DVDか本を、お貸しましょうか?」
クマ「それもいいんだけど、君が、その内容について説明してくれるというのはどうかな?」
「わたしが、ですか?」
クマ「そんなに心酔しているなら、内容についてもよく知っているんだろう?」
「ええ、まあ、一通りは」
クマ「だったら、それを、教えてもらいたいね。ボクも、その白熱教室がそうであるように、こうして対話しながらものを考えるのが大好きなんだ」
「……分かりました。マイケル・サンデル教授のように行くかどうかは分かりませんが、不肖このわたくしめが教授役を努めさせていただきたいと思います」
クマ「生徒がボクひとりじゃ寂しいね。アイチ」
アイチ「ん、なに?」
クマ「今から、この先生が、『白熱教室』で取り上げた問題について教えてくれるから、一緒に聞かないか?」
アイチ「『白熱教室』ってなに?」
クマ「ハーバード大学の有名な哲学の授業だよ」
アイチ「面白いの?」
クマ「もちろんさ、だろ?」
「え、ええ、わたしの語り口がまずくて、それがつまらないということはあるかもしれませんが、少なくとも取り上げられている問題は、知的好奇心をくすぐると思いますよ」
アイチ「じゃあ、聴こうかなあ。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。では、最初に、こういうお話を提示したいと思います」(※これを読んでいるみなさんもちょっと立ち止まって、考えてみてください)

あなたは、路面電車の運転士です。電車を走らせていると、前方に5人の労働者がいることに気がつきます。急いで、ブレーキをかけようとしましたが、あいにくブレーキが故障しています。このままだと確実に5人をひき、その命を奪ってしまいます。そのとき、あなたは、支線があることに気がつきます。ブレーキはききませんが、ハンドルを切ることはできるので、その支線に入ることができます。しかし、その支線にも1人の労働者がいます。支線に入れば、本線の5人を助けることはできますが、代わりに支線の1人を殺すことになります。あなたなら、どうしますか?

「さあ、どうだろう、君ならどうする? その選択と、理由について教えてもらえるかな」
アイチ「うーん……」
「…………」
アイチ「…………」
「本線のまま走るかい? それとも、支線に入る?」
アイチ「分かんないな」
「分かんない!? ……いや、これは想定外だな。何が分からないんだろうか。選択肢は、いま挙げた二つしかないと思うんだけど」
アイチ「だって、わたし、路面電車の運転士になんかなったことないし、そんな究極的な選択もしたことないからね」
「いや、何を言っているんだ。そんなこと言ったら、わたしだってそんなものにはなったことはないし、究極的な二択などしたこともないさ。でも、これは仮にそうだったらという問題なんだからね。もしもそういう状況だったらという仮定のもとで考えてもらわないとね」
アイチ「でもさあ、そんな状況って、ほとんどの人が一生の間、まったく経験しないことなわけでしょ?」
「……まあ、そうだろうね」
アイチ「ということは、かなり特殊な経験だよね?」
「それはそうだ」
アイチ「だとしたらさ、その特殊な経験であるはずのそのことについて、いまこの特殊でもなんでもない日常の中で考えるっていうことに、どういう意味があるの?
「……どういうことかな?」
アイチ「普通さ、あることが起こったときにどうするかを考えるのは、起こり得ることだから、それを考えることに意味があるわけだよね。たとえば、財布を拾ったときにどうするか、とか、いじめを受けたときにどうするか、っていうのを考えるのは、財布を拾ったりいじめられたりすることが、起こり得るから、それを考えることに意味があるわけでしょ。起こり得ることを前もって考えることによって、それが現に起こったときに、対処することができるからね。でも、一生起こらないことについて、それが起こったと仮定してどうするかを考えることにどんな意味があるんだろう。仮に、それを今考えたとしてもさ、そのとき現にそれが起こったら、今の考えなんて、適用されないんじゃない? 起こりえないことが起こったときに、どうすべきかなんて、そんなのその起こりえないときにしか分からないことなんじゃないのかな? だって、それが、『起こりえない』ってことの意味なんだから
「…………」
クマ「有名なトロッコ問題だね」
「え、ええ」
クマ「これはボクも聞いたことはあるよ。5人を選ぶか、1人を選ぶか、悩ましいところ……と一見思われるけど、これは全く悩ましくない話なんだな」
「どういうことですか? なぜ、悩ましくないんです? あなたなら、どうすると言うんですか?」
クマ「ボクならというか、この問題の答えとしてはね、支線に入る方が正しいとしか言えないんだ」
「なぜそんな風に言い切れるんですか? 多数のためなら少数を犠牲にして構わないと言い切っていいんですか?」
クマ「『5人』と『1人』という問題設定自体が、人間を数としてカウントしているよね。5人と1人というのは数の違いのことだ。これはいいね? 5と1だ」
「え、ええ」
クマ「本線にいる人間と支線にいる人間を数の違いとして把握しているということはだよ、数が多い方が普通は価値があるということになるわけだから、当然に、数が多い方である本線の方を優先しなければいけないことになる。当たり前の話じゃないか」
「いや、ちょっと待ってくださいよ。人間は物じゃないんですよ。たとえば、この話が、本線にはリンゴが5つ、支線にはリンゴが1つだという話なら、支線の方に行くべきだと言えるかもしれません。被害が1つになるからです。しかし、人間をリンゴと同じように考えるわけにはいかないから、問題なんじゃないですか」
クマ「そうだ。人間はリンゴじゃない。しかしね、5人と1人という問題設定をするということは、そのとき、人間をリンゴと同じだと見たということなんだ。人間もリンゴと同じように、通常は数が多い方が価値だと思われているけれど、数が少ない方を優先すべき理屈が何かあるのだろうか、という問題設定はね、それ自体がすでにして、人間も通常数が多い方が価値があるという前提を持っていることになるじゃないか。そういう前提があるのであれば、数以外に、特殊事情が無いなら当然に、5人を優先しなければいけないことになるだろ?」
「…………数以外の特殊事情というのは何ですか?」
クマ「たとえば、本線の5人の労働者が他人で、支線の1人の労働者が身内の場合とかだろうね。しかし、こういう条件は、今の問題には無かった。純粋に数の問題だとしたら、必ず5人の方を重視して、支線に入る方を選ばないといけない。問題がそう要求しているんだからね。じゃなけりゃ、詐欺じゃないか」
アイチ「それで思い出したんだけどさ、何かの童話で、ある人が、大きいつづらと小さいつづらのどちらかを選ばされるんだよね。中には宝物が入ってるの。当然、その人は大きいつづらの方を選ぶんだけど、実は大きいつづらにはゴミしか入っていなくて、小さいつづらには宝物が詰められているのね。わたし、これ読んだときに、ひどいなあって思ったのよ。だって、誰だって、何にも言われなければ、大きいつづらの方を選ぶじゃんって」
クマ「『舌切り雀』だね」
「ちょっと納得が行かないですね」
クマ「じゃあ、ボクの方から問題を出そう。今のトロッコ問題と同じ状況で、5人を選ぶか1人を選ぶか、という話なんだけれど、そのときの社会状況として、こういうことを付け加えよう。その社会はね、超長寿社会で人口過密な社会なんだ。その社会では、一般にあまり長く生きることは推奨されてなくて、ある程度の年齢に達したら死ぬのがいいと思われている。安楽死病院も整備されていて、死ぬべきときが来たら死ぬようにきちんと教育も行われている。さあ、そんな中で、5人と1人を選ぶとしたら、君はどちらを選ぶ?」
「それは……そういう事情があるのだとしたら、5人をそのまま轢く方を選ぶかもしれません。少なくとも、支線の1人の方に電車を切り替える積極的な理由はありません」
クマ「なぜだい?」
「いや、だって、その条件設定だったら、そうなるしかないじゃないですか」
クマ「そうだろ? だとしたら、もともとの問題でも同じことだよ。5人と1人だったら、現在の人命尊重という観点からは、5人の方を優先すべきということにしかならない。問題はそもそも、それを要求しているんだよ。それなのに、1人を助ける方にも合理的な理由が何かあるはずだなんていうのはね、大きいつづらと小さいつづらを見せられて、小さい方をあえて選ぶ合理的な理由があるはずだと考えることと同じだよ」
「……どうも納得ができません。そんな問題では無いとどうしても感じてしまうんです。それにこれはですね、功利主義と義務論の対立という、哲学的に深遠なテーマを含んでいるんですよ。それを、そんなにあっさり片付けるというのは、哲学教授としては看過できませんね」
クマ「ああ、そんな『○○主義』とか、『△△論』とかね、そんなものを持ち出したら、真に哲学的な議論なんていうのはできなくなっちゃうよ。そんなものが先にあって人がものを考えるわけがないじゃないか。だからこそ、サンデル教授も、誰にでも分かるトロッコ問題を例に出したんじゃないかな」
アイチ「誰にでも分かるって、わたしは分からなかったけど」
クマ哲学的な問題についてはね、それが分かることよりも、分からないことの方が大切だっていうところがあるのさ。そもそも、その問題が分かるっていうのがどういうことか、まずそれを考えないと、問題に取り組むことさえできないっていうことがね

読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。