片隅の物語|ナ・ジョンホ『ニューヨーク精神科医の人間図書館』【試し読み2篇】
2024年9月19日に、ナ・ジョンホ『ニューヨーク精神科医の人間図書館』(米津篤八=訳)が配本となります。概要は以下の通りです(公式ページより)。
本稿では「1章 ニューヨークで出会った人々」から2篇のエピソードを特別に公開します。現在予約受付中です。ぜひご一読ください。
ふたりのあいだの距離
AとBは、同日の同時刻、同じ場所で生まれた。
Aに初めて会った場所は精神科病院だった。ニューヨークで経験を積みながら、さまざまな患者に出会ってきたが、彼女を初めて目にしたときの衝撃は、いまも昨日のことのように生々しい。何週間も風呂に入っておらず、髪はボサボサで、患者衣姿で冷たい病院の床で寝転んだまま、身じろぎもしなかった彼女。数年間にわたり重度の統合失調症を患っていた彼女は、ニューヨークの多くのホームレスのひとりだった。家族、職場、家をすべて失い、病院と路上を行き来しながら入退院を繰り返し、最後に退院してまもなく、再びニューヨークの街をさまよいながら幻聴と会話していたところを通行人が通報し、病院に担ぎ込まれたのだった。ニューヨークでは、精神的な問題で自身や他人に危害を加える恐れのある人*を通報すると、警察が病院に移送するようになっている。彼女は私がこれまでに出会った統合失調症患者のなかで、最も症状が重かった。
Bは有能な弁護士だった。ハーレムの貧しい家庭で生まれた黒人女性で、まじめで賢かった彼女は、家族のうちで唯一大学に進学した秀才だった。数多くの困難に打ち勝ってロースクールに合格した彼女は、卒業後に同期生だった恋人と温かな家庭を築き、じきにひとり娘の母となった。その後はニューヨークの有名ローファーム〔弁護士を多くかかえ、専門別に組織化された大規模な法律事務所〕で働きながら、育児にも励むスーパー・ワーキング・ママとして名を挙げた。階層の二分化が進むアメリカで、彼女のサクセス・ストーリーは、「努力はやはり報われるものだ」ということを証明するかのようだった。
AとBが同じ空間で出会う確率はどれほどだろうか。たぶん、ふたりが同じ空間にいるのは、Aが野宿するマンハッタンの乱雑な通りを、こざっぱりした身なりのBが急ぎ足で通り過ぎるときくらいではないだろうか。ひょっとしたら情け深いBは、急ぎながら大きなブランドものの財布を開けて、Aの前に置かれた箱に小銭を恵んであげるかもしれない。それほどふたりは、同じマンハッタンに暮らしながら、まったく違った人生を歩んできた。ひとりはすべてを失い、精神病棟を転々とする重度の統合失調症患者として、もうひとりは成功した弁護士として。
*
実は、このような状況は実現しない。ふたりは同じ空間を同時にすれ違うことのできない関係だからだ。というのは、ふたりは同一人物だからである。
多忙で残業が当たり前になっていた彼女は、帰宅後も子育てと家事でろくに休む暇もなかった。せわしない日々を送っていた彼女に、あるときから「声」が聞こえるようになった。最初のうちは彼女の気持ちを汲み取ってくれていたその声は、徐々に彼女を鞭打ち、とがめるようになった。このままでは頭がおかしくなってしまう。恐怖にかられた彼女は精神科を訪ねた。
薬を飲むと一時的に幻聴はおさまり、日常生活を続けられるようになった。しかし夫は、彼女が精神科の薬を飲むことをよく思わず、彼女は薬をやめるしかなかった。そうして数カ月、彼女は体調が万全でない状態で、再びオフィスと家庭で忙しい日々を再開した。
何カ月かすると、声はまた戻ってきた。彼女の幻聴には他人を疑う被害妄想まで加わり、職場の同僚たちとしきりに摩擦を起こすようになった。結局、彼女は解雇されてしまった。
再び戻ってきた声はさらに強烈で、しきりに恐ろしい話もするようになった。揚げ句の果てに、声は彼女にこうささやいた。
「誰かがお前の娘を傷つけようとしている。子どもを守りたかったら、子どもに精神科の薬を飲ませろ。いますぐにだ」
そして彼女はそれを実行した。
このことを知った夫は、すぐさま離婚訟訴を起こし、彼女は親権を奪われてしまった。夫しか頼れる家族もいなかった彼女は、そうしてニューヨークのホームレスとなった。
病院に来た彼女を、私はどう治療すべきかさっぱりわからなかった。どんな抗精神病薬も、彼女の統合失調症の症状には効かず、むしろ症状は悪化する一方だった。病院で最も尊敬され、すべてを知り尽くしているようだった病棟の精神科教授でさえも、この患者にはお手上げだった。内科や神経科の専門医も診察し、血液検査や脳の画像検査、脊髄の検査も何度か行ったが、彼女の症状の原因を見つけ出すことはできなかった。彼女はそうやって病院と路上を行き来する生活を数年にわたり続けた。
私が彼女に初めて会ったとき、彼女はすでに問診すらまともにできない状態だった。その表情は常にこわばり、言語能力は崩壊していた。彼女の感情を読むことは、不可能に近かった。彼女と過ごした時間で、彼女の笑う姿と泣く姿を見たのはたった一度きりだった。娘と過ごした幸せな記憶を語るとき、彼女は少し笑顔を見せ、子どもを手放したときのことを語るときは、硬い表情で涙を流した。
このストーリーが「精神科で魔法の薬を処方したら症状がきれいに消えて、彼女は再び家族と幸せに過ごせるようになりました」というハッピーエンドで終わったなら、どんなにいいだろうか。だが、残念なことに、このストーリーにはエンディングがない。ある日を境に、彼女は病院に運ばれてくることもなくなったからである。
いまでも新たな統合失調症患者と面接するたび、彼女のことを思い出す。そして、どこかで育っているであろう彼女の子どものことを考える。精神科医としてではなく、ひとりの子の父親として私にできることは、どうか彼女の子どもが、「お母さんがどれほどあなたを愛していたか」をわかってくれるよう祈ることだけだ。また、その子が大人になったとき、「お母さんの失敗は、あなたを傷つけるためではなかったこと」を理解してくれるのを切に願うばかりだ。
ニューヨークのホームレス、
ホームレスのニューヨーク
ニューヨークというと、ふつうはエンパイア・ステート・ビルやブルックリン橋、セントラル・パークなどの有名観光地が真っ先に頭に浮かぶだろう。私もそうだった。私はニューヨークという街に、たちまち恋に落ちた。学生の頃、実習に来てマンハッタンを歩いていたとき、この街の華やかな姿に目を奪われたことが、いまも鮮やかに思い出される。
しかし精神科の研修医となって目にしたニューヨークは、観光客だったときに見たものとは確実に違った。地下鉄で病院に通いながら見る街の風景は、華やかさとはかけ離れたものだった。ニューヨークの街路で一番多く見かける存在はホームレスだった。この都市の人口の1%にあたる8万人がホームレスである。毎夜毎夜、ニューヨークの道端や地下鉄、さまざまな公共施設で約4千人が野宿をしている。それ以外のホームレスたちは、ニューヨーク市が提供するホームレス・シェルター* で過ごしている。
ニューヨーク大学の研修医が訓練を受けるベルビュー病院は、患者の70%がホームレスである。これは精神科だけでなく、すべての患者を合計した推計値だが、私の経験から見て、精神科患者は十中八九、ホームレスだと言っても過言ではないほどだ。ホームレスのうち精神科患者、特に重症の精神疾患を持つ人の割合は非常に高い。いくつかの研究によれば、ホームレス全体の25~50%が精神疾患を持っているという。
ホームレス用の休息所ではなく、路上生活をしているホームレスの場合、精神疾患の有病率は90%を超えるという調査結果もある。
精神科ER(救急外来)で勤務していたある冬の日、そこにある家族が訪れた。6歳の子が深刻な自殺願望〔積極的な自殺念慮〕を訴えているというのだ。事情を聞くうちに、気の毒な気持ちで胸が苦しくなった。シングルマザーと5人の腹違いの子どもたちからなるこの家族は、テントで暮らしていた。以前は市が設けたホームレス・シェルターで暮らしていたが、周囲の住人たちが常習的に麻薬を服用したり、家庭内暴力を続けたりして揉めごとが絶えず、たまりかねてシェルターを退去し、街外れにテントを張ってそこに住むことにしたのだった。同日、子どもたちのうちで一番年長の高校生の子どもも、自殺願望でERに来た。幸い、ふたりとも到着してまもなく自殺願望はおさまった。医学的には退院が可能な状況だったが、うかつに退院させるわけにはいかなかった。この子たちを氷点下の凍える気温のなか、ろくに暖房もなく、トイレもシャワーもないテントに帰らせるのが、果たして正しい判断なのだろうか。患者たちが長蛇の列をなし、狭苦しい精神科ERよりも、さらに劣悪な環境でもまれながら生活しなければいけないとは。世界で一番富裕な国アメリカで、こんなことが起きているということが信じられなかった。
*
30代後半のテディは、毎月のようにERを訪ねてくる常連患者だった。彼はいつも朗らかな表情をしていたが、そんな外見とは対照的に、常に自殺願望を訴えていた。そのたびに、彼は病院が提供するサンドイッチを2、3切れ食べてから眠りにつき、翌朝になると症状が治ったと言って退院していった。もちろん、彼のように寝床や食事を求めて精神科ERを訪ねてくるケースは珍しくはないが、大半の患者は入院を希望する。精神病棟に入院すれば、しばらくはベッドと食事の心配をせずに過ごせるからだ。ところが、テディは一度も入院したいと言わなかった。患者たちのなかには、なぜか好感が持てる者もいるのだが、テディがまさにそんなひとりだった。絶望的な状況にあっても楽天的な彼の態度を見ていると、仮病だとわかっていても憎めないのだ。
ある夏のこと。テディがいつものようにERを訪ねてきた。ところが、今回はひとりではなかった。なんと可愛らしい子犬を一匹、連れてきたのだ。迷子になってブルブル震えていたので助けてあげたのだと言う。ポケットに入るほど小さいので、「ポケット」と名づけたという話も付け足した。テディにとって、ポケットは自分への贈り物のようだった。以前は彼の姿を見ると避けたり、足早に逃げたりしていた通りすがりの人たちも、彼がポケットと一緒に過ごすようになってからは、自分から近づいて話しかけてくるようになった。ERには犬は連れ込めないと聞いて、彼は初めて病院で眠らず、サンドイッチをひとつもらうと、笑顔ですぐに病院を後にした。そしてしばらく来ることはなかった。
*
それから半年ほどたった冬のある日、テディが息を切らしてERに現れた。いつもとは違い、上気した顔で慌てている感じだった。すると、あのテディが初めて、「死にたくてたまらない。自分でも何をしでかすかわからないから入院させてほしい」と言うではないか。私を含めたERのチームは初めて見る彼の姿に動揺し、深刻な状況だと理解した。「テディがあんなに言うのだから、きっと何か問題があるに違いない。入院させた方がいいだろう」、「態度がいつもと違うのは、もしかしたら薬物のせいなのでは?」などと、さまざまな意見が行き交った。結局、チームのメンバーは誰もがテディを大いに心配して、彼を入院させることに決めた。入院病棟にちょうど空きがあったので、テディはすぐに病棟へと向かった。
次の患者を診察していると、当直用の電話のベルが鳴った。患者に待ってもらって受話器を取ると、入院病棟の看護師長からだった。
「先生、さっき入院させたテディのことで……。いますぐ来ていただけますか」
すぐ行くと伝えて病棟へと急ぐあいだ、さまざまな考えが脳裏をよぎった。「もしや病棟に行く途中で自殺でも試みたのか」。心配を胸に病棟に駆けつけると、テディがうなだれたまま床を見つめていた。どうしたのかと聞こうとしたとき、横に立っている看護師長が何か抱えているのが目に入った。よく見ると、手のひらに収まるほどの小さな黒い子犬、ポケットだった。ポケットは目をつむったままブルブル震えており、鼻は乾き切っていた。
テディは、自身もポケットも3日前から何も食べておらず、さらに昨日からポケットが熱を出していると言った。どこに行っていいのかわからず、精神科ERに来たのだが、ERには犬を連れてきてはならないという話を思い出し、入院病棟に行けばこっそり犬に食べ物をあげながら生活できるのではないか、と思ったということだった。
規定上、犬を連れて入院することは不可能だった。結局、再びチームの長い会議を経て、私たちはテディに、子犬を保護センターに送り、テディはホームレス・シェルターに行ってはどうかと提案した。ポケットが安楽死させられやしないかというテディの質問に、保護センターをよく知る同僚の研修医が、「そのようなことはない」と安心させた。テディは思いのほか素直にこの提案を受け入れてくれた。彼は、ニューヨークの寒い冬からポケットを守ってやれる自信がないと言いながらポケットを抱き上げ、私たちにしばし席を外してほしいと頼んだ。私たちが部屋を出ると、いつも明るかったテディはわが子を失った母親のように声を上げて泣いた。固く閉じられたドアの隙間から漏れ出した、その重いすすり泣きを、私はいまも忘れることができない。
(つづく)