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これから友になるかもしれない人たちへ~私たちの知る第二次世界大戦を越えて|佐藤由美子

このコラムでは、拙著『戦争の歌がきこえる』(柏書房)に書ききれなかったトピックを紹介します。本書は第二次世界大戦終結から75周年を記念し、私がアメリカのホスピスで音楽療法士として働いている際に出会った、退役軍人やその家族とのストーリーをまとめた一冊です。

2015年に初めてフィリピンを訪れたとき、私は地元の人々が直面している貧困にショックを受けた。しかし、彼らがとてもフレンドリーに接してくれたことが強く印象に残っている。私をフィリピン人だと思いタガログ語で話しかけてくる人もいたが、日本人だと伝えるとすぐに英語に切り替え、親切に話してくれた。第二次世界大戦中、フィリピンの島々で戦闘が行われたことは知っていた。だが、そこで具体的に何が起こったのかを私が知ったのは、『戦争の歌がきこえる』を書きはじめてからのことだ。

フィリピンセブ島

セブ島にて/著者撮影

第二章「記憶の中で生きる」では、アメリカのホスピスで音楽療法士として働いていたときに出会った退役軍人について紹介した。彼はフィリピンで日本兵に親友を殺されたが、その後、原爆投下後の広島に送られた。まさに両国での悲劇を目撃した人だった。

フィリピン戦についてリサーチをする過程で、私は驚くべき事実を知った。例えば、フィリピンで戦死した日本兵の数は他の場所と比べて最も多く、51万8000人に及ぶ。さらに、フィリピン人の死亡者数はその倍の100万人以上だったという[*1]。

1945年2月に始まったマニラの戦いでは、日本軍による民間人の虐殺が起こり、”The Manila massacre(マニラ大虐殺)”とか “The Rape of Manila(マニラのレイプ)”と呼ばれることも知った。この虐殺では約10万人が殺されたそうだ。最大で百人もの少女が強制的に慰安婦にされ、民間人や軍の捕虜は拷問を受け、フィリピン赤十字病院本部では避難者、医師、看護師が殺害された[*2]。

これら一連の残虐行為自体もショックではあったが、このような事実を自分が「知らなかった」ということに、私はいっそう驚きを感じた。以前、日本占領下の中国で生まれた患者さんと出会ったとき(第8章「忘れられた中国人たち」で紹介)、私は初めて「香港の戦い」について知り、似たようなショックを受けた。真珠湾攻撃と同日、日本は当時イギリス領だった香港を攻撃したのだ。被害者数は定かではないが、ここでもやはり日本軍による虐殺やレイプが広く報告されている。また、マニラ大虐殺の時のように、医師や看護師が殺されるという事件も発生した(St. Stephen’s Massacre、セント・スティーブン・カレッジの虐殺)[*3]。真珠湾攻撃について知らない日本人はいないだろうか、香港の戦いについては知らない人も多いのではないか。少なくとも私はこの出来事について学校で教わった記憶はないし、日本で生まれ育つ中で耳にした記憶もない。

私に当時の日本軍が行ったことに対する直接的な責任はないが[*4]、これらの歴史を「知らない」ということについてはどうだろうか? もちろん、戦時中アジア諸国で起きた事柄を子どもたちにほとんど教えない日本の教育システムや、メディアの報道の仕方にも問題があるだろう。でも、私自身、日本軍による残虐行為という居心地の悪い過去を、それまで知ろうとしなかったことも事実だ。

著名な歴史家のジョン・ダワーは、著書 『敗北を抱きしめて』の中でこう書いている(増補版下巻、313頁)。

「どの文化においても、どの時代でも、人びとは自分たちの戦死者を神話化してきた。その一方で、自分たちが踏みにじった相手についてはーー多少なりとも思いを致すことがあったとしてもーーすぐに忘れてきた」

どの国にも語り継がれているストーリ―がある。そして、それに当てはまらない事柄は、意図的、もしくは無意識に忘れ去られていくという特徴がある。私は半生をアメリカで過ごしているが、アメリカ人は第二次世界大戦について語るとき、ノルマンディー上陸やナチスとの戦い、パールハーバー(真珠湾)などの出来事に焦点を当てることが多い。これらヒロイズム(英雄的行為)と犠牲の物語は繰り返し語られることによって、アメリカ人のいわゆる「集合的記憶」(コレクティブ・メモリー)となっていったのである。

今年、ニューヨークタイムズ紙は “Beyond WWII We Know(私たちの知る第二次世界大戦を超えて)”という連載を開始した。アメリカ人にはあまり知られていない物語や、これまであまり語られてこなかった事柄に焦点を当てた企画だ。例えば、女性パイロット、国内で人種差別を受けながらナチスと戦った黒人兵士たち、強制収容所に送られた日系アメリカ人の家族​​、東京大空襲についてなどの記事が掲載されている。これらの記事は、これまでに形成されてきたアメリカ人の「集合的記憶」を超え、第二次世界大戦をさまざまな視点から見る機会を読者に与えている。同時に、アメリカ人が忘れてきた記憶を発掘し、伝えるという意義も持つ。

今年、第二次世界大戦終結から75周年を迎えるが、日本ではどのような報道がなされるのだろうか? 開戦、日本本土への空襲、沖縄戦、原爆と被爆など、これまで数え切れないほど語られてきた物語に再び焦点が当てられるのだろうか? それとも、フィリピンを含めたアジア諸国で起こったことなど、あまり日本人に知られていない事柄が報道されるのだろうか?

戦争による日本人の被害や苦しみを忘れず、語り継ぐことは大切だが、日本という国が加害者でもあった事実を無視することは正直な態度とは言えない。また、戦時中アジア諸国で起こった出来事を避けることは、そこに送られた数多の日本兵たちが味わった経験も無視することになる[*5]。彼らの多くは無謀な戦いの中で、飢餓や病気によって亡くなったのだ。

先の大戦から長い時間が過ぎ、また当時を知る者たちが少なくなってきている今だからこそ、私たちの知る第二次世界大戦の物語を越えて、向き合いたくない記憶や、忘れられてきた記憶にも目を向けなければならないのだと私は思う。

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執筆のためのリサーチを進める中で、戦後、フィリピンと日本が良好な関係を築くひとつのきっかけとなった出来事についても知った。 それは、1948年に大統領に就任したエルピディオ・キリノ氏による日本人戦犯に対する恩赦だ。

キリノ大統領はマニラの戦いで妻子を亡くしたにもかかわらず、1953年にマニラの刑務所に服役していた元日本兵ら105人を釈放し、日本へ帰国させた[*6]。当時、日本軍に対するフィリピンの人々の怒りは強く、恩赦の決断については国民の評判もよくなかったという。それでも、彼は声明文にこう綴った[*7]。

「日本人に妻と3人の子どもと他5人の家族を殺された私は、彼らを赦すのに最もふさわしくない人間のはずだ。(しかし)私は、自分の子どもや国民に、私たちの友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすかもしれない人たち(日本人)へのヘイトを受け継いでほしくないから、これ(恩赦)を行うのである。結局のところ、私たちが隣人であることは運命なのだ」

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キリノ大統領(1953年)

フィリピンを旅したとき、人々が日本人である私に対し親切だった理由のひとつには、キリノ大統領の存在が少なからず影響していたのかもしれないと思った。声明文の中で、彼が日本人を “people who might yet be our friends(これから私たちの友となるかもしれない人たち)”と呼んでいるのが印象深い。彼は、両国の間に恐ろしい過去があったことを認めつつも、それを乗り越えて友になれるかもしれないという期待を、今を生きる私たちに託したのである。

【補足】
[*1]日本兵の戦死者数は吉田裕の『日本軍兵士』、フィリピンの民間人死者数は吉岡吉典の『日本の侵略と誇張』を参照。

[*2]マニラ大虐殺については“BRIEFER: Massacres in the Battle of Manila”(Presidential Museum and Library, MALACAÑAN PALACE)を参照。日本軍による残虐行為について書かれたこのページ内では、「男性、女性、子供などの多くの民間人を建物に連れ込み、ドアや窓を閉め、建物に火をつけた」犯罪にも言及されている。およそ10万人もの民間人がどのように殺害されたのか、犯罪の詳細、場所、年月などが詳しく記されている。

[*3]この事件については、同大学の公式サイト(Heritage Gallery)でも紹介されている。

[*4]英語には「責任」を表す語彙がいくつかあり、「fault(フォルト)」や「responsibility(レスポンシビリティ)」などがある。どちらも、「AがBを引き起こした」という明確な因果関係が成立する場合に使用される言葉であり、日本語の「責任」とはかなり意味が異なる。この点について、詳しくは『戦争の歌がきこえる』の「補遺」で紹介した。

[*5]例えば、元日本兵・石田甚太郎(Jintaro Ishida)は、日本軍がフィリピンで行った残虐行為について、現地の生存者や100人近くの退役軍人にインタビューをして本にまとめたが、日本で彼の名を知る人は少ない。しかし、ニューヨークタイムズ紙などでは紹介されており(”Japanese Veteran Writes Of Brutal Philippine War”)、その著書は英語でも出版されている。彼自身は海軍だったため、フィリピン戦での経験はなかったが、退役軍人とのインタビューを通じて、「自分もフィリピンに送られていたら、虐殺行為に加わった兵士の1人となっただろう。だからインタビューを続けるのはつらかったし、自分にとっても恐ろしい経験だった」と答えている。日本ではおそらくほとんど忘れ去られているが、貴重な資料だと思う。

[*6]外務省のサイトにも「105名の日本人戦犯は,キリノ大統領(当時)の恩赦により,全員釈放されました」とある。

[*7]キリノ大統領の声明文は“To be truly free: President Quirino’s act of forgiveness”(The Manila Times)より著者訳。原文は「I should be the last one to pardon them as the Japanese killed my wife and three children, and five other members of my family. [But] I am doing this because I do not want my children and my people to inherit from me the hate for people who might yet be our friends for the permanent interest of our country.」なお、この声明が出された背景には、冷戦下の世界情勢や日本との賠償交渉の行き詰まりなどの政治的な事情もあった。またその頃、キリノ大統領ががんを宣告されたことも、決断に影響を与えたともいわれている。彼が日本兵を赦した理由は簡単なものではなく、そこには複雑な背景があったと考えられる。

佐藤由美子(Yumiko Sato)
ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013 年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年にふたたび渡米し、現地で執筆活動などを行なう。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。
Twitter: @YumikoSatoMTBC
HP: https://yumikosato.com