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バンクーバー編④ 初春のキャンパス|虹はいまだ旅の途上——李琴峰のクィア的紀行

 NESTを離れた後、Sさんは私を別の場所へ案内した。図書室と自習室が入っているラーニング・センター。食の正義を掲げるヴィーガンカフェ。ある建物の一階の柱は様々な色にペインティングされていて、そのうちの一本がトランス・カラーに彩られ、
〈Trans kids, we love you so much!!〉
 と書かれている。また、キャンパスの一角には興味深いエコー・チェンバーがある。真ん中の丸い台座の上に立って喋ると、どういう原理か、音波が反射し戻ってきて自分の声が反響して聞こえる。
 それから、UBCの名所の一つ、新渡戸記念庭園を見学した。これはカナダで客死した新渡戸稲造博士を偲んで作られた日本庭園で、真ん中に池が配され、池を中心に様々な樹木が植えられており、なかなか風情がある。中には入れないが、「一望庵」という茶室もある。惜しむらくは余寒厳しい初春の折、ほとんどの樹々がまだ冬枯れの様相を呈している上に、空も鈍色に覆われ、全体的に彩りに欠ける。一本だけピンクのつぼみをつけ始めた桜があり、春の兆しを感じさせる。庭園はそこまで広くなく、一周するのに10分しかかからない。

 アジア研究センターは新渡戸記念庭園のすぐ隣なので、こちらも見学させてもらった。この建物はなかなか特殊な構造になっていて、正面入り口から入ったらそこは5階で、短い階段を上って会議室と研究室が並ぶフロアに入ったら6階になっている。では1階から4階がどこへ行ったのかというと、別館みたいな建物の地下にある。また、この建物は1970年の大阪万博のサンヨー館を移築したものだそうだ。掲示板には私が講演する学会のポスターと並んで、平野啓一郎さんの講演会のポスターも貼ってあった。なんと私の講演のちょうど一週間後に、平野さんもここで講演することになっているのだ。
 アジアセンターの前の広場には5つの岩が設置されており、それぞれ儒家思想の「五常(良いとされる5種類の道徳)」——「仁」「義」「礼」「智」「信」——の文字が刻まれている。

 センターを出た時、傘がないことに気づいた。朝は雨が降っていたので傘を持っていたが、いつの間にか止んだからどこかに置いてきてしまったのだ。可能性は食事をしたカフェか、クィア・ラウンジしかない。そこで、私たちはまずカフェへ戻って店員に尋ねたが、傘の忘れ物はないとのこと。ということは、クィア・ラウンジだ。
 私たちは再びNEST2階のクィア・ラウンジへ戻り、無事傘を見つけた。廊下に出ると、先刻鍵がかかっていて入れなかった突き当たりの図書室「Out on the Shelves」の中に人影があることに気づいたので向かってみたら、確かにスタッフがいた。
 しかしノックすると、女性のスタッフが出てきて、今日は開室していないと告げた。私たちがドアに掲げてある開室情報を指さして「今日空いているって書いてあるけど?」と言ったら、スタッフは「それは間違いだ」と言いながら、日曜日の開室時間の欄を消した。どうやらスタッフが中で本の仕分け作業をしているだけで、オープンはしていないらしい。
 そこでSさんが、
「彼女は訪問者で、UBCにはしばらくの間しかいないから、今日見学させてもらえると助かるんだけど」
 と交渉してくれた。それを聞いた若い女性スタッフも「そういうことだったら」と、あっさり中に入れてくれた。日本ではなかなか見られないこのアバウトさも欧米らしいというか。
 そこは狭いが可愛らしい図書室だった。クィア関連の書籍が、成人向け、若者向け、子供向け、さらにはフィクション、ノンフィクションといったカテゴリー別に分類され、棚に収納されている。ほとんど見たことも聞いたこともない英語の本だが、まれに知っているタイトルもある。気になったのは古い本が多く、新しい本があまりないという点だ。レズビアンの棚から一冊手に取ると、「アジアのレズビアンの作家と芸術家たち」の章があるので興味津々とページをめくってみたら、
「与謝野晶子」「尾竹紅吉」「平塚らいてう」「山川登美子」「吳藻」「宮本百合子」
 の6人の名前が列挙されている。マジか、と心の中で苦笑した。
 別の棚には英語以外の本が収まっている。英語の本と違って、こちらの分類はだいぶ雑である。一体誰が寄贈したのか、90年代のゲイ雑誌『バディ』や、東宮千子のBL漫画『日本を休もう』の中国語版もある。マジか、と再度つぶやく。
 さっき話したスタッフのほかにもう二人スタッフがいて、三人とも女性で、英語で雑談している。三人とも大学生で、ここでボランティアをしているらしい。高校時代の話をしているようで、断片的に聞き取れた英語によれば、パンデミックの時に三人とも16歳だったとのこと。パンデミックの時に16歳だったとは! 改めて自分が歳を取ったなと実感し、少し落ち込んだ。
 NESTを出て、もう何か所か見学した。天気の関係で、海岸近くのローズ・ガーデンはまったく花が咲いておらず少し寂しい。キャンパス内のカナダ国旗がすべて半旗掲揚になっていることに気づいたが、後で調べたら、元カナダ総理ブライアン・マルルーニーが最近亡くなったかららしい。
 この近くにヌーディスト・ビーチがあるよ、とSさんが教えてくれた。それ、知ってるかも! と私は返事した。「Wreck Beach」は私が持っているクィア向けのガイドブック『The Pride Atlas』にも載っているのだ。それによれば、ビーチへ行くには険しい崖から500段の階段を下りなければならないという。ってことは、上る時も500段? そんな体力はないし、ヌーディスト・ビーチにも興味はないし、そもそもこんな寒い日にビーチに人がいるとも思えないので、割愛することにした。
 キャンパスの別のところに、「民主の女神」という、六四天安門事件で亡くなった人たちを追悼する像が立っており、花が捧げられている。2019年の香港デモや2022年の白紙運動の時も、ここは中国政府に抗議する学生たちが集まる場所になったという。

(つづく)

連載概要

「クィアという言葉を引き受けることによって、私は様々な国のクィアたちに、さらには現在にとどまらず、過去や未来のクィアたちにも接続しようとしている」——世界規模の波となって襲いくるバックラッシュにあらがうために、芥川賞作家・李琴峰が「文脈を繋ぎ直す」旅に出る。バンクーバー、ソウル、チューリッヒ、アムステルダム、各地をめぐった2024年の記録。

著者略歴

李琴峰(り・ことみ)
1989年、台湾生まれ。作家・日中翻訳者。2013年来日、17年『独り舞』で第60回群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビュー。『五つ数えれば三日月が』で第161回芥川賞・第41回野間文芸新人賞候補、『ポラリスが降り注ぐ夜』で第71回芸術選奨新人賞受賞、『彼岸花が咲く島』で第34回三島由紀夫賞候補・第165回芥川賞受賞。他の著書に『星月夜』『生を祝う』『観音様の環』『肉を脱ぐ』『言霊の幸う国で』がある。