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私たちは「細けえこと」にとらわれ続けよう|『まとまらない言葉を生きる』刊行記念対談|荒井裕樹×はらだ有彩

 5月に刊行された文学者・荒井裕樹さんの著書『まとまらない言葉を生きる』の帯には、「テキストレーター」として活躍中のはらだ有彩さんによる推薦の言葉が並んでいます。

強くて安全な言葉を使えば、簡単に見落とすことができる。
だけど取り零された隙間に、誰かが、自分が、いなかったか?

 面識のないお二人ではありますが、荒井さんから「ぜひ一言御礼を伝えさせてください。ついでに軽いお話でも……」と打診をしたところ、「私もぜひ一度ご挨拶したいです!」とはらださんもご快諾。今回の対談が実現しました。

 お二人は日々、何を考えながら書いているのか。はらださんは帯文にどのような思いをこめたのか。そして私たちは、社会の理不尽にあらがうためにどのように声を上げていけばいいのか。「軽いお話」だったはずが、どんどん掘り進んでいった議論の過程を、前後編でお届けします。

【前編はこちら】

[構成=天野潤平]

「まとまらない言葉」とは何か?

荒井 とてもお恥ずかしい話なんですけど、ぼくははらださんのように「定番の物語」にほとんど触れずに育ってきたんですよ。それこそ『赤毛のアン』や『星の王子さま』でさえ、どれもそこそこ大人になってから必要に迫られて読みました。

はらだ 文学者というお仕事上、必要に迫られる機会は多そうですよね(笑)

荒井 そうそう(笑)。でも一方で、ぼくの中には「メインストリームにはのらないぞ」という意識も根強くあるですよね。

はらだ なぜでしょう?

荒井 はらださんって、ごきょうだい、いらっしゃいます?

はらだ 弟がいます。

荒井 長女でいらっしゃるのですね。ぼくは三人きょうだいの末っ子です。末っ子って、気ままで、わがままで、勝手に育って、と言われることが多いのですが、末っ子なりの苦労があります。物心つくころには家庭内のルールや空気が決まってしまっているんですよ。

はらだ 組織運営の成功パターンが確立されているわけですね。

荒井 上の子だったら、親もその子を育てながら試行錯誤で家庭内のルールを作っていくと思うんですが、末っ子の場合はルールが既に決まっているから、自分がどうこうできる話ではない。もう鉄壁ですよ。
もちろん、その枠に収ってしまえば楽に生きていける部分もあったのかもしれないけど、ぼくはすんなりと収まることができなかったんですよね。「なんで自分抜きに決まっているんだ」「ここは自分の居場所じゃない」って。だからかな、いわゆるメインストリームのようなものを疑ってしまうんです。みんなが読んでいるものも、「みんなが読んでいるから偉いのかよ」って思ったり、「メインストリームに収まらない奴はどうすりゃいいんだよ」って、はすに構えて考えてしまう。

はらだ 「みんなにちゃんと等しく伝播する物語」って、どのお話も伝播するだけで、もう抗い難いパワーですよね。「細けえこたあいいんだよ!」というような、相当なダイナミズムを持っていないとそもそも伝播しない。

荒井 でも、「細けえこと」って気になりますよね(笑)

はらだ そう、気になる(笑)。だから、伝わるために意識された「あえてのザルの目の細かくなさ」を脅威に感じることがあります。あれ?今何か見逃さなかった?みたいな。
もちろん、ダイナミズムによって一つの大きな思いが伝播することでシーンが大きく進む面もあると思うんです。特に、あまり認識されていなかった概念が名前を得て、バーン!と広まるときとか。ただ、大きな駒がどんどん進んでいくときに、その隙間を小さな駒たちが埋めていく必要もある。そうでないと、道が穴まみれになってしまうから。そういう意味でもこの本のタイトルには共感しました。「そうそう、まとまらないでほしいのよ!」となったんです(笑)。だから帯に、「取り零された隙間」と書かせていただきました。
もちろん、取り零すぐらいの大きいスコップのほうが、ひとまずいっぱい掬えるんですよ。でも同時に、確実に何かが取り零されていることを忘れてはいけない。例えばサラダを取り分けるとき、最初に大きい葉っぱをとって、あとから転がっているプチトマトを拾わないと効率悪いですよね。だから最初にガバッと掬うのはいい。でもそこで、取り零してたプチトマトをそのままにしないことも大事。私にとって「まとまらない言葉」のイメージは、プチトマトです(笑)

荒井 ありがとうございます。そしてなんと秀逸な喩えなんだ(笑)

「効率よく合理的に社会を変える」ことの危うさ

荒井 でも、本当にその通りなんです。効率性や合理性といったものが、すごく大事なものを取り零していくということは、やっぱり障害者運動家たちが教えてくれました。先ほどJRの乗車拒否の話が出ましたが[編注:前編を参照]、伊是名さんはエレベーター設備のない駅で降車しようとしたところ、対応できないと言われたんですよね。バリアフリー設備って、あったほうがいいじゃないですか。でも、全ての駅に今すぐ設置できるわけではない。そうすると、「利用率の高い駅を優先して、効率よく多くの人が使えるような形で進めていく必要がある。だから、そこで優先順位が出てくるのは仕方がない」って考えた人は少なからずいたでしょう。でも、ぼくは「それは違う」と思っています。

はらだ 物理的に進めるしかない上で、ここまではできていて、ここまではできていない、という進捗状況はありますよね。進捗を進めてくれている人ももちろん必死で。でも、「優先順位の高いところは達成した、だからかなり達成できているほうだ」とパーセンテージで達成度を認識するのは、本質ではないと思います。

荒井 「障害者差別解消法」って、障害者運動におけるこれまでの議論の積み重ねの真髄みたいな法律です。詳説は避けますが、効率よくバリアフリーを進めようという発想にはなっていないのですよ。というのは、まさにその「効率性」や「合理性」という価値観によって障害者たちは差別されてきたので。
では、どういう発想なのか。現状、障害のある人にとって、歪んだ構造や不具合がいたるところにあると。それは部屋のスイッチを消したり入れたりするようには消せないと。順番に取り組んでいくしかないんだと。じゃあその順番をどうするのかといえば、声が上がったところから対応しましょう、あるいは、上げられた声に向き合ってください、というのが基本理念です。つまり、効率よく合理的に社会を変えていこうという発想ではない。
だからこそ、今、「声を上げる」こと自体を押しつけるムードがあるのが怖いんです。基本理念が否定されている気がします。

はらだ 「声を上げる」ことを押しつける、というのはどういうことですか?

荒井 「抑えつける」のほうが適切ですね。個人が「声を上げる」とものすごいバッシングが起きるわけです。

はらだ 「声を上げる」ことで叩かれてしまう。「声を上げてくれてありがとう、じゃないんかい!」って思っちゃうのですが……。

荒井 その声のおかげで、気づいていなかった社会の問題が明らかになるわけですからね。だから、障害者差別解消法って、障害者に好き勝手させろという法律でもなければ、特別に優遇しようという法律でもない。この認識は決定的に重要です。

差別は「感情」の問題か?

はらだ もしかすると、「声を上げる」人を叩こうとする人たちは、今の社会をけっこう良い感じだと思っているのかもしれません。既に100点なのに、どうしてプラスアルファを求めるのか、って。これはフェミニズムの文脈で「男尊女卑を取り締まりすぎて、むしろ女尊男卑なのでは!?」と茶化す人を見かけたときにも感じることです。「あらゆることが解決してるつもりでいるやろお前!まだ何も解決しとらんぞ!」って思います。

荒井 「アライシップ」というのかな。最近よくこのお話をするようにしているのですが、はらださんって、公共交通機関を利用するときに、事前に連絡しますか?

はらだ しないです。しないで済んでいます。

荒井 私もしないです。でも、世の中には公共交通機関を使おうとすると「事前に連絡しろ」と怒られる人たちがいる。ぼく自身は電車に乗るとき事前に連絡しないし、する発想もない。でも、ぼく自身はそうなんだけれども、そうでない人が社会にはいる。そうなったときに、「じゃあ荒井はそれについてどう思うの?」と立ち止まること。「アライシップ」って、そういう感覚だと思うんです。そうやって立ち止まって考えてみたときに、「いや、知らんがな」と言ってしまうのか、「みんなで考えてみよう」と言えるのかが、問われているのだと思います。

はらだ それがおっしゃる通りだという大前提のもと、最近、「立ち止まって考える」こと自体を善いことだと思いすぎるのも危ういな、とよく思います。善いどころか、既に不便を強いているわけですから。その時点で善くはない。そこに必要以上に「善性」を見いだしすぎるのも不均衡ゆえだと思うし、むしろ「立ち止まって考える」のに付き合わせてしまってごめん、というか。

荒井 そうですね。あくまで「立ち止まって考える」はスタートなので。でも、それでも、ぼくたちはそこから始める必要があるのだと思います。我が事として起こったことではないのだけれど、自分が生きている社会に何らかの歪みがあるのだとしたら、「それについてお前はどう思うんだ?」と自分に問いかける発想は必要なんです。同性婚や夫婦別姓の議論もそう。どちらも、認められても認められなくても、一晩寝れば同じ明日が来る人もいれば、そうじゃない人がいるわけです。それをどう考えるのかが問題です。
「差別」とは何か。みんな差別を「感覚」や「感情」の問題として捉えすぎているのではないかと思います。誰かが誰かを嫌だと思うとか、忌避するという感覚の問題として捉えすぎている。もちろんそういう側面もあるんだけど、もう少し構造の問題として捉えたほうがいい。社会の仕組みに不具合があって、たまたま自分は不具合に巻き込まれていないけれど、巻き込まれてしまっている人たちがいたときに、無関心で居続けたり、どうでもいいと突き放してしまったりすることは、明確な「差別」なんです。
だからこそ、声を上げてもらう作業がどれだけ大切か。声を上げた人を守ることがどれだけ必要か。みんなで考えなければいけません。

「剥き出しの個人」のぶつかり合い

はらだ 声を上げた人をバッシングから守らなければならないような状況、つまり声を上げると攻撃されるような状況も、忌避感から起きているように思います。声を上げられる側の人が、上がった声によって、自分の人間性が攻撃され、これまで気づかなかった自分自身そのものがものすごく劣っていると、直接非難されたように感じてしまっているのかもしれない。世界の歪みを個人が率先して背負いこみすぎている、というのかな。
もちろん率先して差別している場合は論外ですけど、「ごめん、気づいてなかった!」となる状況ってどうしてもあるから、気づいてから対応すればいいだけの話なんです。それなのに、気づけなかった自分に対して、「自分は本当にダメだ」(と言われている)って思い込みすぎてしまう。でも、いちいちそうなっていたら何も聞き入れられないじゃないですか。だからそこは、人間性の問題にしすぎないほうがいい。
やっぱり、社会の仕組みがうまく回っていないんだと思います。声を上げた人を反射的に黙らせようとするのではなくて、上げられた声と声を上げられた自分を――こういうと無責任っぽいんですけど――一瞬切り離す。感情的に切り離して、「どうして声が上がったんだ?」ということをある種冷静に考えたほうがいいと思います。やっぱり「他責」は大事だ(笑)

荒井 もちろん、声を上げる人は、その時々の心情や置かれた状況の深刻さによっては、目の前の人を強く糾弾してしまうことがあります。それをするな、というのも無理があるとは思うんです。
歴史を振り返ってみると、1970年代って障害者運動がめちゃくちゃ「過激」と言われた時代なのですが、社会の在り方としては、今よりもマシな側面もあったのかもしれません。過激ではあったけど、「ここに差別があるぞ」「お前がやっていることは差別だぞ」って、いろんな人がちゃんと言い合えていたわけですから。
当時は、公共交通機関の運転手とか、現場で作業をする労働者が、障害者運動家たちから責め立てられたりすると、「これは組合の問題でもあるのだ」と、「組織の話」にできる余地もありました。「剥き出しの個人」として問題と向き合う必要性が、今より大きくなかったのです。組織の問題として受け止められる仕組みになっていた。
声を上げる側もそうです。「剥き出しの個人」ではなく、○○グループだとか△△会という形で闘えた。今はどちらかというと、組合自体ほとんど存在しないし、あっても弱体化してしまっています。「剥き出しの個人」同士がぶつかり合う場面が増えているのは、相当しんどいことです。

はらだ SNSによって、個人が声を上げやすい環境になりましたよね。「組織の話」が「100×1個」だとすると、「剥き出しの個人1×100人」の頻度で戦いを提案できることは良い面もあります。だけど「個人1」が目に見える分、上げられた声を個人の視座に引き下げて責め立てることも簡単にできてしまう。個人で声を上げた人に「わがまま」「それはお前の問題だろ」と個人の視座で反論して、組織の話にならない。

荒井 でも、そうではないんですよね。これはやっぱり、社会の仕組みの問題なのだから。

「細けえこと」をスルーしないこと

荒井 うーん。あれですね、「軽い話」するはずだったんだけどな(笑)

はらだ 「軽い」と「重い」が分からなくなってきました(笑)

荒井 でも、なんていうのかな。はらださんって多分、いろんなものが目についちゃうタイプですよね。喫茶店で本を読もうと思っても、隣の人の会話が気になるタイプじゃないですか?

はらだ 気になって1ページも進まないタイプです(笑)

荒井 ぼくもそう(笑)。きっと近いタイプだと思いました。

はらだ 「言葉のまとまらなさ」が気になるくらいですからね。

荒井 あははは。でも、目に入っちゃうとか、関わっちゃうとか、ちょっとこれは捨て置けないみたいな感覚。その感覚は大事だと思うから、お互い大事にしていきましょう。はらださんはきっと、言葉の「画素数」を上げる仕事をされていて、ぼくはそこを面白いと感じたんだ、ということが今日はわかりました。お話しできてよかった。ありがとうございました。

はらだ 「細けえこと」をスルーし続けていると、いつの間にかダイナミズムに巻き込まれてしまうから、まとまらないまま、画素数高く、目に入れ続けたいですね。ああ、また、まとめようとしてしまった……。こちらこそ、ありがとうございました!

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。著書に『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『 生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜 紀書房)、『障害者差別を問いなおす』(筑摩書房)、『車椅子の横に立つ人――障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)などがある。近刊に『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)。

はらだ有彩(はらだ・ありさ)
関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストを作る“テキストレーター”として活動。 2018年5月に『日本のヤバい女の子』を柏書房より刊行し注目を集める。著書に『日本のヤバい女の子 静かな抵抗』(柏書房)、『百女百様――街で見かけた女性たち』(内外出版社)、『女ともだち――ガール・ミーツ・ガールから始まる物語』(大和書房)がある。現在はカドブンで連載していた『ダメじゃないんじゃないんじゃない』の書籍化を準備中。


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