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もうひとつのレジリエンス――あるいは起きたことを忘れないために|跳ね返りとトラウマ|阿部又一郎【書評】

 2022年12月22日に、カミーユ・エマニュエル 著『跳ね返りとトラウマーーそばにいるあなたも無傷ではない』(吉田良子 訳)が配本となりました。本稿では、校正に協力いただいた精神科医・阿部又一郎さんの書評をお届けします。

 サッカーW杯カタール大会で、フランスやモロッコの代表チームの活躍に世界中が湧いた年の瀬に、フランスの風刺新聞社シャルリ・エブド襲撃事件を扱った『跳ね返りとトラウマ――そばにいるあなたも無傷ではない』(カミーユ・エマニュエル 著、吉田良子 訳)が日本で刊行された。原著者は、襲撃事件の「間接」被害者である。「間接」とは、風刺画家として同社に勤めていた著者の夫リュズが、たまたま編集会議に遅刻して、わずか数分の差で襲撃を免れたからだ(その原因は、本編の前半「狂った小道具係」の章で描写されている)。時間通り定例編集会議に参加していた同僚ら12名が、カラシニコフ銃を撃ち込まれて殺害された出来事に遭遇した夫は、その後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、事件に関わる(直接の)被害者として認定された。それでは、罪責感、悪夢、被害妄想、フラッシュバックに悩まされる夫に寄り添う、家族の苦しみは?――リュズの妻として、事件を契機に生活が激変し、自らにも「跳ね返った」トラウマの長期的な影響に、著者がどう向き合い、乗り越えて(正確には現在進行形で)きたのか。もうすぐ事件から8年を迎えるが、本書は著者をはじめ関わった人たちの生に甚大な影響を及ぼすトラウマをめぐる、あるの記録である。

 訳者あとがきに記されているとおり、2015年1月7日、パリ11区ニコラ・アペール通りにあった風刺週刊紙『シャルリ・エブド』の編集部に、覆面をして武装した二人組の男が侵入し、編集部メンバーおよび複数の関係者を殺害(むしろ虐殺だろう)した。続いて、別の犯人が8日にパリ近郊で警察官を銃殺、9日にはユダヤ系食品店で人質殺傷事件まで引き起こし、世界中を震撼させた。一連の事件は犯人たちに交流があったため、「シャルリ・エブド襲撃事件」と呼ばれる。最初の襲撃の前夜が、キリスト教の慣習で公現祭(1月6日)にあたるため、フランスでは伝統的菓子のガレット・デ・ロワを家族で切り分けて、なかに入っていたフェーヴが当たって王冠を被り、幸運が1年続くことを願った市民や子どもたちもいただろう。そんな幸福な眠気を吹き飛ばした一連の襲撃事件の衝撃に応答する形で、事件後の週末からフランス各地で行われた「私はシャルリ(Je suis Charlie)」のデモ行進(「共和国の行進」)には、多数の市民や政府関係者、海外からの著名人まで参加して、「自由・平等・ユーモア」の掛け声が響き渡った。本邦でも、事件に応答する形で、すぐにいくつかの出版社で緊急特集号が発刊された[*1][*2]。それらは同時に、今日のフランス社会(だけではない)が抱える、信仰や差別、格差や外国人恐怖といったさまざまな社会問題を浮かびあがらせることになった[*3]。こうしたうごめきが跳ね返って対立や分断を孕みつつ、同年11月13日に勃発したパリ同時多発テロ事件へとつながっていった。

 著者のエマニュエル(無論ペンネームである)氏は、襲撃事件の直接被害者ではなかった。しかし、夫は前夜、著者とベッドで一緒に過ごし、寝坊したおかげで、危うく一命をとりとめていた。会議に参加していた夫の同僚たちは、ライター業をしていた著者とも顔なじみであったが、その多くが襲撃に巻き込まれて命を落としていた。事件犠牲者のなかには、『シャルリ・エブド』紙上でメンタルヘルス系の人気コラム「シャルリの寝椅子 (Charlie Divan)」を連載していたチュニジア出身の女性精神科医で精神分析家エルザ・カヤット(Elsa Cayat)氏もいた[*4]。

 跳ね返りリコシェ ricochetというタイトルには、著者なりの思いが込められている。この言葉に聞き慣れなくとも、レジリエンス résilienceという言葉は、2011年3月11日以降、どこかで耳にしたことはあるだろう。強靭化をはじめ回復力、復元力など多様な訳とともに紹介されてきたレジリエンス概念は、跳ね返りも含意しつつ、困難な状況を乗り越えて不都合な環境のなかで自らを再構築し続ける、個人または集団のリソース、プロセス、フォースの総体を表わす。時代とともに意味や使用法も変遷してきたこの概念によって、何かが起きる前よりも後のほうが改善しうる(トラウマ後成長と呼ばれる)と考えられるようにもなった[*5]。

 著者は、事件から1年半が経過したあるとき(これも間接的なトラウマ性ストレスがきっかけで)、フランスでレジリエンス概念の専門家とみなされる、ホロコーストを経験した神経精神科医ボリス・シリュルニク[*6]に長文のメールを送っていた。そして、しばらくたってからの短い返信に記された、「慈悲コンパシオンによるトラウマ」という名づけにいささか驚愕しつつ、いくらか反発も覚えていた(「幕間I:疑問」)。レジリエンスの専門家が指摘する言葉ではしっくりこないため、事件当日に救急の場で受けた心理面接で説明された「跳ね返りリコシェ」という言葉を採用して、その意味について自らの経験に絡めて探求していくことになった。

 著者が執筆に着手して、何度かの中断を経て校了したときは、襲撃事件の発生からすでに5年以上が過ぎていた。当時の大統領もすでに交代して、「戦争状態」と形容された2020年のコロナ禍の都市封鎖経験や、フェミニズムに関連した#MeToo運動も経ている。著者は、事件前までフェミニズムやセクシュアリティの楽しみに関するエッセイや記事を積極的に書いてきた。著者自身はアカデミズムに属する人間でも、激しい抗議に訴える活動家でもない。彼女は、中立的ではない主観的記述を特徴とするゴンゾー・ジャーナリスト(この肩書きの存在を、本書で初めて知った)を自任している。実際、事件後から、著者は自分の置かれた状況や、さまざまな感情体験について自ら納得するために、多くのトラウマの専門家や当事者たちにインタビューを(断られた相手も少なからずいたようだが)行っていく。

 著者も悩まされるトラウマ臨床における記念日アニバーサリー反応とは、一般に、ひどく劇的でつらい出来事から、年月が経過しても節目の時期に、心身の状態が不安定になることを指す。人によって出来事の内容や影響のレベルはさまざまであるが、本邦での近しい社会的出来事でいうと、日航機墜落事故、阪神淡路大震災、「3.11」などであろう。その日が近づくと、人はなにがしか、その日どこで何をやっていたかを想起する。ただし、そうした記憶は、事後的に加工されていることも多く(著者の表現だと「実際、記憶とは狂った小道具係だ」)、語り出すにも相応の時間と空間、それに聞き手を必要とする。著者は、シャルリ・エブド事件後の5年間を(それ以前に受けた個人的トラウマ体験や家族史までも)振り返ることで、表現の自由をはじめ、ライシテ(政教分離)、フェミニズムとセクシュアリティといったさまざまな問題も投げかけている。ジャーナリストであるとともに間接被害者としてインタビューを試みている著者は、さまざまな専門職と絡み合いながら探求をすすめていく。出来合いのツールによる理解の仕方では安易に妥協せず、自分で見出した言葉で折り合いをつけるしかないということか。そうであっても、著者が自由な精神とユーモアを捨て去ることはない。

 本書で著者は、自らの回復に寄与したレジリエンスの手段について具体的に列挙している(「ナマステ」)。すなわち、①書くこと、②心理療法サイコセラピー、③フィクションの力、④エクササイズ(ヨガやボクシング)そして、⑤アルコールである。このうち5番目の手段は、現代精神医学的にみると対処行動として推奨されないし、②についても、技法や適応の時期を誤るとむしろ有害にはたらく。著者は他にも、当事者でゴンゾー・ジャーナリストの見地からリスク/ベネフィットを正直に告白している。率直なところ、著者がレジリエンスを十分に発揮して、トラウマを乗り越え、外傷後成長に至ったのかどうか私には判断できない。事件後から日常を生きることから生き延びることへと変わったエマニュエル氏にとって、ワインボトルもやむにやまれぬ手段であっただろう。ロバート・デ・ニーロが演じた映画『タクシードライバー』で描写されたように、PTSDを抱える人と周りの近しい人たちは、さまざまな代償(不全)性のアディクションを抱えている。

 著者はまた、事件後にPTSD症状に苦しむ夫と、寄り添う「間接」被害者にとって、支えとなった人たちの存在に触れている。それは、公的な補償を受けられるよう支援活動する弁護士や保健福祉関係者らの存在のみならず、困ったときに応答し、ふつうに寄り添ってくれた人たちである。そうした支え手たちは、襲撃事件後に、メディアの反応を意識しながら言論の自由を声高に叫んだ著名人や、連帯と共感を示すことで政権浮揚につなげようとする思惑を抱いた為政者たちでは決してなかった。
 例えば、事件後に、再びの襲撃をおそれて転居を考える著者夫婦が、なかなか部屋がみつからなかったとき(パリでの部屋探しは平時でさえ大変で、テロの標的となった関係者を部屋にかくまうリスクを思い浮かべればよい)、快く部屋を貸してくれた控えめで奥ゆかしい知人女性のパスカル。出産を控えた著者が、海外の産科病院に滞在して(関係者のなかには、事件後の二次被害に耐えかねてパリを離れた者も多かった[*4])、心細かったときに病院で寄り添ってくれた、ヒジャブをかぶった若いイスラム系助産師アイチャ。出産後、著者がセラピーとしてすすめられて作成したフォトアルバムには、アイチャの写真も保管されている。著者の娘はいつか、自らの出生にまつわる支え手の存在を知ることだろう。さらには、夫リュズがある晩、フラッシュバック様の被害妄想発作を呈したとき、対応に困り果てていた著者とともに、静かに寄り添ったゲイの友人ムラド、など。
 著者は、事件当初に、心配を示しつつ、お節介にも早々に有名メディアにつなげようとする同僚や、事件に至る背景をまるで知っていたかのようにコメントする友人(だと思っていた人)や知識人たちに対する怒りを隠さずに記している。その一方で、著者は、上述した名もなき人たち(少々つきあいにくそうな人もなかにはいるが)との出会いや素の優しさに接し、回復のしるしとして感謝の気持ちを書き留めている。レジリエンス(跳ね返り)の対策とは、ポジティブ心理学的なセルフマネジメントを啓発したり、トラウマの専門知識をもった医療専門職を養成したりするだけではない。

 著者の文章は、一貫して「自由・平等・ユーモア」を忘れずに、感情の正直さ(そのためつねに正確とは限らない)、「歯に衣着せず」好き嫌いがはっきりしている。トラウマとセクシュアリティに関して、アニー・エルノー(今年ノーベル文学賞を受賞した)の告白スタイルに共感しつつ、クレール・マランの当事者哲学的思索や、ポール・B. プレシアドの挑発的身振りなどを好んで引用している。レジリエンスを発揮するまさに「跳ねっ返り」の女性である一方で、探求する著者のエクリチュールには、気になる表現も垣間見られる。それは、著者が自身のコンディションをわかりやすく伝えようとするときに、しばしばエビデンスに依拠しつつ、「私は」ではなく「私の脳は」と自己描写する点である。その表現からは、ウェルベックの小説世界でも描写されている、極端に脳神経中心主義的な言説とイメージに満ちた社会で生きる現代人の孤独を呼び起こさせる[*7]。セックス・セラピーの研修経験を持つ著者は、事件後の年末に娘を出産して母親になったが、心身はいまも回復途上にある。そのプロセスは、同じ日にトラウマ性ストレスを受けた家族ともども、それぞれ固有な形で展開していくようである。

 「跳ね返り」の探求の終わり近くで、著者は、祖母の死の知らせから葬儀への参列を契機に、自らの家族史について章を割いている。精神科医のティスロンは、『家族の秘密』のなかで、〈秘密〉を構成する三要素について語っているが、それは、漏出、反跳(跳ね返りリコシェ)、波及で構成される[*8]。一見、無関係にみえたトラウマ性ストレスをきっかけに、また別の被包化されたトラウマがあらわになることもある。時には、生き残った者に沈黙が強いられることもあり、語られるには、しばしば時間を要する。それらをすべて語り尽くせばハッピーエンドというわけでもなく、むしろ、語りえないことが問題となるのだ。

 本書の少し前に邦訳出版された、デルフィーヌ・オルヴィルール(Delphine Horvilleur)の『死者と生きる』でも、シャルリ・エブド襲撃事件の犠牲者のひとりエルザ・カヤットの葬儀の思い出と、残された人たちと死者をつなぐ回想が記されていた[*9]。ユダヤ教の女性ラビとして活動するこの著者と、左派系で無神論者の家庭に育ったエマニュエル氏とは、依って立つ思想も筆致も全く異なるが、「起きた劇的な出来事を忘れない」ために、時間の忘却に抗しつつ、何を語り、伝えていくのか考えさせられる。どちらも「シャルリから8年目を迎えて」と、遠い国で起きた悲劇的事件のアニバーサリー反応を安易に喚起するだけでは済まない、たくさんの課題が含まれている。寛容さとは、傷とレジリエンスのはたらきとは何か、トラウマに関わりうるすべての人たちに一読を勧めたい。

阿部又一郎

『跳ね返りとトラウマ』
カミーユ・エマニュエル 著/吉田良子 訳

【注釈】
[*1]『現代思想2015年3月臨時増刊号――総特集 シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃』青土社、2015年
[*2]鹿島茂+関口涼子+堀茂樹 編『シャルリ・エブド事件を考える――ふらんす特別編集』白水社、2015年
[*3]エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か?――人種差別と没落する西欧』堀茂樹 訳、文春新書、2016年
[*4]カトリーヌ・ムリス『わたしが「軽さ」を取り戻すまで――"シャルリ・エブド"を生き残って』大西愛子 訳、花伝社、2019年
[*5]阿部又一郎「15分で読む レジリエンスという交差路」『人文会ニュース』126号、1-19頁、2017年
[*6]ボリス・シリュルニク『憎むのでもなく、許すのでもなく――ユダヤ人一斉検挙の夜』林 昌宏 訳、吉田書店、2014年
[*7]ミシェル・ウエルベック『セロトニン』関口涼子 訳、河出文庫、2022年
[*8]セルジュ・ティスロン『家族の秘密』阿部又一郎 訳、文庫クセジュ、2018年
[*9]デルフィーヌ・オルヴィルール『死者と生きる』臼井美子 訳、早川書房、2022年

阿部又一郎(あべ・ゆういちろう)
1999年千葉大学医学部卒業、精神科医。2008年フランス政府給費生としてエスキロール病院、ASM13ほかにて臨床研修。医学博士。2014年、東京医科歯科大学精神行動医科学助教を経て、現在、伊敷病院勤務、東洋大学大学院非常勤講師。主な訳書(共訳、監訳含め)に、『双極性障害の対人関係社会リズム療法』『ロボットに愛される日――AI時代のメンタルヘルス』(以上、星和書店)、『レジリエンス』『うつ病』『家族の秘密』『双極性障害』『こころの熟成』『今日の不安』(以上、白水社文庫クセジュ)など。

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