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大西民子と北沢郁子|そしてあなたたちはいなくなった 第1回|瀬戸夏子

 一九四九年、女性歌人のみで構成された「女人(にょにん)短歌会」が結成された。女人短歌会は季刊誌「女人短歌」と叢書を創刊し、多くの女性歌人をシーンに送り出してきた。後の女性歌人の飛躍を語るうえで欠かせない存在であるにもかかわらず、彼女たちの功績は、ほとんど顧みられてこなかった。 
 本連載「そしてあなたたちはいなくなった」では、男性優位の歌壇のなかにあって、それぞれの戦いを粘り強く展開してきた「女人短歌」の女性歌人たち、そして、あえて「女人短歌」からすこし距離をとりながら同時に戦ってきた女性歌人たち、ひとりひとりの素顔と歩みに、歌人の瀬戸夏子がせまる。

 第一回は、夫との悲惨な離婚劇と妹との密な関係を詠みつづけたことでよく知られている大西民子と、彼女の親友の北沢郁子。

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第一回 大西民子と北沢郁子 

 大西民子という人がいる。大西民子という歌人がいた。こうやって語りおこしてみて、彼女が遠くも感じられるし、また親しくも感じられる。

 そして北沢郁子という歌人がいた。ともに超結社雑誌「女人短歌」に参加していた、 大西の親友だった。わたしは彼女のしるした『回想の大西民子』という書物から、大西民子についておそらくたくさんのことを知ったし、そして北沢郁子という人についてもたくさんのことを知ったように思う。『回想の大西民子』は北沢の唯一の散文集だ。

 ここでは事実に誤りのないように心して書いたつもりではあるが、私の記憶ちがいもあるだろうし、必ずしも秀歌を上げていないのは、筋を運ぶためなのだから、許して貰いたいと思っている。特に調べたりはしなかった。その方が自然だと思ったからである。
 民子と私の全く私的な交際のかたみを、互いの友情の浄化のために書いたので、歌人としての大西民子論の参考にしていただきたくないというのが本音である。

あとがきからの引用だが、たいへんわがまま勝手な言い分だと思う。つまり『回想の大西民子』を書き、発表することは北沢郁子にとって、《わたしの》大西民子の話をきいてほしいということに他ならなかった。 大西民子は北沢郁子のものではなかった。どんな関係性においても完璧な所有などはありえないけれども、この本に描かれているのは、北沢が大西を所有することはできなかったという悲しみと、嫉妬だ。書くことによって、北沢はひとつの、甘やかな復讐をしたはずだ。 誰かについて何かを語ることは対象の一部あるいはすべてを必ず略奪するが、語ることによってしか成しえないことも必ずある。そして人の語りを通した虚実曖昧な関係性の地獄のなかでしか見えないこともある。そう考えながらわたしは北沢郁子による大西民子の語りをきいた。

 であるならば、わたしは、わたしと大西民子の話からはじめようと思う。


* * *

――おそらく、大西民子の歌集をひとつ選べといわれて、彼女の八冊目の歌集である『印度の果実』を挙げる歌人はほとんどいないのではないかと思う。しかしこの歌集はわたしにはとても親しい歌集だった(すくなくともわたしの場合は、というただし書きはつくが、好きな歌人であっても《親しい》歌集が存在しないこともある。そして、また逆のケースもある) 。

 絢爛豪華な作風の歌人ばかりを好んでいた初学のころ、大西はわたしにとっては遠い歌人だった。ただ、手元に、とくだんのきっかけもなく『印度(インド)の果実』があった。これは昭和六十一年の初版のものが平成十四年に短歌新聞社文庫として文庫化されたもので、学生の身分にはありがたかった。たびたびまとめ買いしていた短歌新聞社文庫のなかの一冊。地味な歌集だ。彼女のキャリアのなかにおいても重要な位置にある歌集でもない。けれど、他のどんな歌集もどんな小説も受けつけず読むことができなかったのに、『印度の果実』だけはくりかえし頁をひらくことができた、短いけれど、そんな期間があった。ひとり暮らしのベッドのなかで『印度の果実』を開いていると、くだらないとわかってはいるのに去ってはくれない懊悩が、そのなかにすっと吸い込まれていくような感覚があった。

 トランプのうらなひをして夜にをれば隣の部屋はくらやみの箱

 目に見ゆるこころの如くナプキンのかたちやさしくたたまれゐたり

 卓上の駱駝のランプ人の来て背中に赤き灯をともしたり

 左手はつねに受け身か青々と茹でし水菜を絞らむとして

こういった淡い歌に呼吸をあわせていると、息をするのが楽になって、微熱を冷たいタオルで拭われたような気持ちになるのだった。その親しさにわたしはそのとき看病されていたようなものだ。あるいは、ちょうど隣の病室から、おだやかな話し声を聴いていたような。他の人にとってどうなのかはわからないし、そして、この時点ではわたしには大西に関する知識はほとんどなかった。

* * *

 年譜をたどると、――大西民子は大正十三年、岩手県盛岡市に生まれ、盛岡高女卒業後、奈良女高師に進学、このとき、のちの前衛短歌運動におおきな影響を与えた前川佐美雄(さみお)に短歌を学ぶ。しかし戦争激化により六ヶ月繰り上げ卒業、帰郷し、岩手県立釜石高女の教諭となる。やはり上京して本格的に短歌を勉強したいという思いのあった大西は、教員組合活動で知り合い、周囲の反対を押して結婚した作家志望の夫・大西博とともに、昭和二十四年、埼玉県大宮市に居を移す。かつて学んだ前川佐美雄にもすすめられていた木俣修(おさむ)に入門し、木俣主催の「形成」に参加する。夫の大西博が家を出ていったのは昭和二十八年頃、そして夫との別離をうたった『まぼろしの椅子』は昭和三十一年に刊行された。『まぼろしの椅子』は、戦後の復興期における働くインテリ女性の離婚劇としてセンセーショナルなかたちで読まれたという。
 
 しかし、実際に彼女と夫との協議離婚が成立するのは昭和三十九年であった。大西は十年間ずっと夫の帰りを待ちつづけていた。「大西」はかつての夫の姓で、離婚後、彼女は、菅野(かんの)の姓にもどり、通常の生活では菅野民子と呼ばれていたものの、文筆の世界では大西姓を使いつづけていた。新聞などの媒体に載った場合、それがたとえ死亡記事であっても、いまはどこにいるとも知れないかつての夫に目が届く可能性があるからだと言っていたという。大西姓を手離さなかった、といってもいい。

 後年の民子は別れた夫のことを話すとき「ヘンな亭主」というのだ。私はテイシュという発音が嫌いで、民子の口から聞きたくないので厭な顔をするらしく民子は「彼」と言い直すのだった。

一方、北沢郁子は大西のことをこんなふうに書くのでわたしはついラインマーカーで線を引いてしまう。歌の評価云々よりももっとプライベートな次元のことだけれど、なにせ北沢が「歌人としての大西民子論の参考にしていただきたくない」「全く私的な交際のかたみを、互いの友情の浄化のために書いた」文章なのだから。 わたしは遠慮なく、北沢からの、大西の夫への恋着の当てこすりみたいな箇所ばかり探して読んでしまう。どんなに人が大西民子の離婚劇やその歌を愛そうと、「夫を待つ大西民子」を嫌がる人がいたってよいのだ。

 夫と別れた後、大西は生涯他の誰とも結婚しなかった。けれど、その後、大西が愛しあって暮らしていた相手がいた。妹の佐代子である。佐代子はたいへんに内向的で、うまれつき心臓も弱く、埼玉大学文学部を卒業したあと、ときどき近所の子どもに勉強を教えたりする他は家に居て、ほとんど人に会わず、それこそ姉の「妻」のように暮らしていた。かつての夫の博と妹の佐代子は犬猿の仲だったが、夫が去ったあと、大西の隣にいたのは佐代子だった。「どこか誰もお人のこないところへ二人で行きましょう」とせがんだり「人間を止めたい」といって一晩大西を困らせたこともあったという、極端な妹の繊細さに手を焼かなかったはずはないだろうけれど、そんな佐代子を大西は甘やかし、たいへんに可愛がっていた。そんな佐代子は昭和四十七年に心不全で急逝した。佐代子は大西の最後の肉親であり、この死によって、大西はすべての家族を失ったことになる。

 なぜそうであつたのか分りませんが、その一年ほど前から、妹と私はそれまでになく睦みあつてくらしていたような気がいたします。十三年も飼い続けた犬を死なせて、この世に残されたのはいよいよたつた二人だけ、という思いだつたのかもしれません。妹は私の歌の熱心な読み手で、また容赦ない批評者でもありました。まるで妹一人のために歌を書き続けていたような気さえいたします。
 死の三か月ほど前のことでしたが、私の歌ののつた雑誌を熱心に読んでいた妹が、泣いているのに気がつきました。「どうしたの」と聞くと、「あたしのことが、こんなに大事なのね、失うのがこわいのね」などと言うのでした。それは
  
 円柱は何れも太く妹をしばしばわれの視野から奪ふ
  
という一首のことでした。それから、そのなかに、「これはなんとなく不吉だわ」という歌もありました。

 盛りあげて活けゆく花に目の前をしばしなりとも塞がれてゐよ
 
 そして、死の一週間前の日曜日の新聞にのせた歌のなかに、次のような一首があったことも、あとで思えば恐ろしいようなことでした。
 
 始まりも終りも知らず生きゐると小さく署名なすとき思ふ
 
 その朝、駅まで新聞を買いに行つてくれた妹は、駅前から電話をかけて来て、「写真の顔がなんだかさびしそうよ、泣いているみたい」と言つたりしたのでした。

妹の挽歌集となった五冊目の歌集『雲の地図』の後記の書き出しだ。この歌集は『まぼろしの椅子』に続いてそののちの彼女のイメージ――たったひとりの妹を失った姉――に大きく影響を与えた。やはり良くも悪くも大西には自身のドラマ化にかなりの才能があった。大西は、夫との別離ののち数十年経って、

 妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか

という名歌をまた詠むことになる。もちろんこの一首だけでも格別の感があるが、『まぼろしの椅子』を知る読者はさらなる苦い深みを味わうだろう。大西は、自身の嘆きの身振りの見事さで人の心がどれほど動かされるかをよく理解していた。妹の死についても同様、第七歌集『風水』に収録された歌、

 妹といふあいらしきもの日も夜もわがかたはらにゐたる日ありき

について、北沢はこんなやりとりを書いている。

「妹ってあいらしきものなの?。何だか少し違うようね」
と私がいうと民子はムキになって、
「あいらしいよ、あいらしいでいいのよ、じゃあなんていうのよ」
と私に突っ込み、私が「いとほしいかな」と逃げると、民子はあくまで、
「あいらしいでいいのよ」
と頑張った。幼い妹があいらしいのなら分かるが、姉妹のある時期の葛藤を些かでも知る私は、民子の内部で浄化された佐代子が、民子自身の幼女のようになっているのだろうと思い、かなしい気分になった。

 北沢は、大西の自己劇化に、水を差す。とはいえ、夫にせよ妹にせよぎりぎりのところまで追い詰めたりはしない――それが彼女たちの友情のバランスを最後まで保っていたのだろう。けれど歌人・大西民子の物語化に口を挟むとき、北沢にはそのひびわれから生身の大西にふれたいという気持ちがあったにちがいない(そして、この引用した北沢の文章にも「浄化」という言葉が出てくる……あとがきの「友情の浄化」……北沢がおなじ言葉をここでも用いていることは注意してよいポイントだと思う――浄化、書かれた内容がたとえどんなに醜悪であっても、書かれてしまったものは避けようもなくどこか美しいものとなってしまう)。

 北沢はいわゆる独身をつらぬいた人であった――しかし、それ以上のことをわたしは知らない、北沢は歌人としてはごく例外的にほとんど人生のデータを見せない人だった、『回想の大西民子』にも北沢自身の人生や生活における描写はほとんど見られない――ふたりのあいだで東大寺二月堂過去帳の話題が出たさいに、おたがい、どちらか先に亡くなった人が残った人を供養しようと約束し、大西が亡くなってから北沢はほんとうにそれを実行した、しかも、大西の意志を尊重して本来なら菅野姓で書かなければならないところを大西姓で記帳した、あるとき、大西から大西自身が嵌めていたガーネットの指輪を貰い、そして大西がもういちど自分にガーネットの指輪を買ったことで、ふたりで銀座で落ちあって食事をしたとき同じ指輪をつけていてたのしかったと――そのことを大西が新聞にエッセイで書いたコピーを渡してくれたという事実をたからもののように扱い、そしてお返しに大西にサファイアの指輪を贈り、しかも勝手に形見交換のように思いなしていた、――そしてなによりもそんなエピソードをこれでもかとばかりに積み上げた『回想の大西民子』を書きあげた。師事していた福田栄一の「古今」解散後、北沢は女性のみの少人数の同人誌「藍」に拠っているが、それ以外のことは、大西の親友であったということしかいまとなってはほとんど知られていないのではないだろうか。けれど、むしろ、北沢にとってそれは本望であったのかもしれないとさえ思わされる。

 かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は

 大西の最初の歌集『まぼろしの椅子』の題はのちに代表作ともなるこの歌から採られたものだろう。もともとこの歌は、かたはらの椅子=待つべき人=夫を、焦がれて待つ夜もなくなり=夫は去り、けれどその椅子も、そもそも幻=夢のようなものにすぎなかったと詠まれたものであろうけれども、「椅子」はのちに

 留守のまになりと来りて漕ぎゆけよ在りし日のままに揺り椅子を置く

と変奏される。大西は佐代子に揺り椅子をプレゼントし、その椅子は佐代子の部屋の真ん中に置かれていた。けれど、この揺り椅子、主を失い、いまは一人暮らしの大西以外の誰も触れることができないはずなのに、仕事から帰ってきたときに朝と異なる位置に少し動いているのだという(!)。この発見を大西は「死んだ人って帰って来ることがあるのね」、「あれは妹が来てしばらく腰かけて遊んでいるのよ」と息をはずませて北沢に報告した。北沢はここでも、『嵐ヶ丘』みたいな話ねと流そうとしたり地震や工事ではないかと現実的なアイディアをプレゼンして大西の自己劇化に水を差す。

 それぞれの「椅子」に、大西は恋う人の不在を詠んだ。思うに、北沢は大西民子が描く「大西民子」というドラマのなかに自身をもっとつよく引き入れてほしかった、ロマンティックな存在になりたかった、つまり北沢もその「椅子」が欲しかったのかもしれない、などと考えかけ、けれど、

 かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は

もしかしたらこの歌は、北沢郁子から、いなくなってしまった大西民子に宛てられた歌かと錯覚しかけ、――北沢もまた大西を待っていたのではないかと――むしろ錯覚《したい》と、願おうとしてしまう。この歌を大西民子の歌ではなく、北沢郁子の歌であると錯覚する瞬間を持つということは、=大西民子が描いた夫との離婚の悲劇を、北沢郁子が描いた大西民子への挽歌と読みかえることは、『回想の大西民子』を執念深く読みこんだわたしへの北沢からのひとつのプレゼントではないかとさえ感じる。
 
 そして、北沢郁子も、昨年帰らぬ人になった。かつては、ただただ、北沢のまなざしから大西のすがたを追いかけ、いや、まなざしそのものをみつめていただけだったけれど――、まなざしのまぼろしを追うやりかたを、つまりかつて存在した大西にむけられた様々なまなざしをわたし自身がまなざしながら夢想しなければならないときがやってきてしまったのだ。

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主要参考文献
大西民子『大西民子全歌集』(沖積舎 一九八一)
大西民子『印度の果実』(短歌新聞社 一九八六)
北沢郁子『回想の大西民子』(砂子屋書房 一九九七)
北沢郁子『夢違』(砂子屋書房 一九九五)
北沢郁子『北沢郁子歌集』(砂子屋書房 二〇〇一)
飛高隆夫、 野山嘉正編『展望 現代の詩歌7 短歌Ⅱ』(明治書院 二〇〇七)
川村杳平『無告のうた 歌人・大西民子の生涯』(角川学芸出版 二〇〇九)

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執筆者プロフィール
瀬戸夏子(せと・なつこ)…1985年生まれ。「現代短歌賞」選考委員。2005年春より作歌を始め、同年夏に早稲田短歌会に入会。第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版)、第二歌集『かわいい海とかわいくない海end.』(書肆侃侃房)。2017年、現代短歌の中に潜む無意識の女性蔑視を指摘した評論「死ね、オフィーリア、死ね」(「短歌」歌壇時評)が話題に。2019年3月、初の散文集『現実のクリストファー・ロビン』(書肆子午線)を刊行。「新潮」「文學界」などに寄稿。
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