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閉店パティスリー

かつてないほど、お菓子を食べている。
マフィン、スコーン、ワッフル、チーズケーキ・・・あ、プリン。
いま、私の体は、小麦とバターと卵と砂糖で出来ているのかもしれない。耳元の匂いをクンクンすれば、甘い香りがしそうだ。
いや、むしろお菓子になってしまったのかもしれない。おかしい。


手軽なので昔からマフィンはよく作っていた。
ここ最近は、我が家に珈琲ブームが到来してしまったので、珈琲のお供によく作るのだ。
お菓子作りが趣味なわけではない。スーパーで安い焼き菓子を買うこともある。とはいっても、手作りはいい。家族が喜んでくれるし、焼いている時間の香りも楽しめる。
でもやっぱり。「プロの作った丁寧なケーキを食べたい」と、おひとり様時代の贅沢好きな私が顔を出してしまう。
それを思い出した時の心のときめきといったら、自分よりはるかに甘い匂いを追って、パティスリーに駆け出すよりほかない。


引っ越してから、馴染みの店は一軒だけだ。
ホワイトデーのお返しに、夫が買ってきてくれたことがあった。
最近はウイルス騒ぎで閉店時間も怪しい。思い立った時に走り出すのが確実だ。夕日が傾きそうな時分を自転車で走る。桜の散り終わった小川を越えて、人気のないタクシー会社の駐車場を抜けて、漕ぎ続けること約10分。駅前からは少し外れた、マンションの一階にお気に入りの店がある。


茶色で統一され、一色深みのあるオレンジが入ったロゴの店。
店の半分以上は喫茶になっていて、売り場の壁には焼き菓子が積まれている。喫茶スペースは休みのようだった。
店の中は狭いわけではないけれど、いつも4〜5人くらいの客がいて、お互い微妙にスペースの譲り合いをしている。
壁沿いの焼き菓子を見たい人、レジ前のショーケースを見たい人、レジに並びたい人、どれを買おうかまだ考えている人、入店直後の私。
駆け抜けて息の荒い私は、マスクの中で吟味する。


以前買ったのはチーズケーキだったか。いや、ショートケーキだったか・・・。先に目に止まる焼き菓子コーナーが私を誘ってくる。
マドレーヌ、フィナンシェ、クッキーも捨てがたい。いつも大物に目を奪われて買っていないが、本当は君たちもきっと美味しい。網かごにチェックと可愛い布の上で寝ている君たちは、いつも程よいきつね色で艶やかで、しっとりしているのが見てわかるのだよ。封がしてあっても、開ければたっぷり使ったアーモンドプルーフが香っているはずだ。そして、その体の7割は質の良い黄金のバターで出来ているのだろう。(できてません)

そこにひどい誘惑の香りが鼻孔を刺す。シュークリームだ。
どうしてシュークリームってあんなに美味しそうな香りがするんでしょうね!近くに置くの、やめていただきたい。ショーケースに並ぶケーキたちの慎ましさを見習ってほしい。

とはいいつつ、この日はシュークリームに落とされた。私はまだウブ。
いつもなら、人気のシュークリームはたいてい売り切れなのである。ラッキーだ。
この日はもう夕方というのにパティシエのおじいさんが店頭に立っていた。おじいさんは少し腰を折った律儀なお辞儀で、シュークリームの入った箱を渡してくれた。



数日経って、またパティスリー発作が起きた。
今度は夫が以前買ってきてくれたフォンダンショコラを買おう。
あの美味しさには、本当に恐れ入った。フォンダンショコラの常識が覆された。なにせ、フォンダンショコラの棒だったのだから。
棒の形状を保てるしっかりとした生地なのに、食べると生チョコなんだから、全く期待を越えてくる。


手入れされた街路のつつじが一斉に咲いて、吸い込めば甘い蜜の香りがおやつのようなゴールデンウィークの昼下がり。店は真っ暗だった。


「長年のご愛顧ありがとうございました。
本日午前をもちまして、閉店いたしました。」


あぁ、あの可愛いきつねたちは見えないのか。
もうみんな、私を誘ってくれないのか。
思い出の味は、全部が思い出になってしまった。
高鳴りは返ってこないやまびこになって、私は冷たいままのショーケースを外から見つめるしかなかった。




うん。あの日、シュークリームを食べられてよかった。
フォンダンショコラは惜しいけど、よかった。

義父が身体も気にせず、悔いが残るくらいなら食べたいものを食べるとよく言っているけど、本当にその通りだ。

よかった。
おつかれさまでした。
ありがとう、馴染みのパティスリー!

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