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【当代編】6.印度のサーカス団

 欧州大陸とアルビオン大英帝国の本土アルビス島を隔てるドーヴァー海峡を渡るには、大陸側からであれば、フランセーズ王国に臣従するブリタージュ公国のカレー港で船に乗り、対岸のアルビス島ドーヴァー港へ向かうのが一般的だ。
 印度王国を旅立った『ラムダスファミリー・サーカス団』は、欧州大陸各地をおおむね巡業すると、荷馬車の列を連ねてカレー港から船に乗り込み、大陸西部のはずれに位置するアルビス島へ渡った。
 どの地でもサーカスは好評だったが、大陸を移動するにつれ、暑さに慣れた印度のひとびとはしだいに寒冷で苦しむようになった。ことアルビス島に到っては、あの狭い海峡を隔てるだけでこうも大陸と違うのかというほど、年中鬱々と霧が深く、湿った寒さは底冷えがした。
 吝嗇の締まり屋で鳴らしてきたサーカス団長のラムダス・ラズーリは、家族と思うサーカスの団員たちをかわいそうに思い、これまでコツコツ蓄えた財をはたいて、アルビス島に着いてから全員に分厚い毛皮の外套をあつらえた。
 ラムダスの娘でサーカス団の踊り子のアリアドネは、色あざやかな更紗をまとい、浅く日に焼けた手足をのびやかにさらして印度の踊りを観客に披露する以外、やはり頭巾のついた外套をかっちりと着込んでいた。
 サーカスは広場や公園などのひらけた場所でおこなわれる。ドーヴァー港のある街から巡業しながらたどり着いた帝都の煙霧京では、市街地のニヴァリス・パークで曲芸や猛獣の見世物をするテントを張り、日が暮れると寒さをしのぐために荷馬車のまわりでたき火をした。
 どうやら、そのたき火がいけなかったらしい。王宮に接するニヴァリス・パークは普段から不審火に神経を尖らせており、市警の監視がいっそう厳しかった。とはいえ、帝都たる煙霧京は政庁や商店、集合住宅が密集していて、このパークのほかにひらけた場所というものはなく、あるとすればもっと郊外にまで行かなければならない。そもそも人の多い煙霧京でサーカスをすること自体、客を集めるのが目的なのだから、郊外では意味がなかった。
「ここは白雪公の荘園であるぞ! きさまらのような胡乱なやからは、さっさと立ち退くがいい!」
 居丈高な市警の警官は、アルビオン大英帝国が支配する印度王国からきたサーカス団が相手ということもあり、あきらかにアリアドネたちを下に見ていた。乾いて脂気の抜けたゆるくうねる金の髪を外套の内側へしまったアリアドネの、毛皮のふち飾りのついた頭巾からのぞく浅く日焼けした小さな顔で、大きすぎる濃い碧眼ばかりがぎらぎらとたき火に照らされるのを見た警官は、この印度の踊り子がまだ若くて、ほんの十五、六歳にしかならないを確かめ、底意地悪そうに片頬でニヤリと笑う。
「なんだい、娘さん。文句があるってのかい?」
「ここは公園よ! 誰でも自由に出入りできるのに、私らだけ追い出そうたってそうはいかないわ!」
「追い出すなんて人聞きが悪いな。うちの本部にお呼びしようってんだ。全員がムリなら、娘さんだけでかまわんよ」
 父と同じくアリアドネも、これまで長旅をともにしてきたサーカスの団員たちを家族と思っている。その家族を庇うように一団の先頭に立つアリアドネは、警官の侮辱に腹を立てた団員たちが後ろで口々に声を荒げるのを、外套の肩ごしに振り返ってたしなめた。
「みんなは黙ってて! 私が話をつけるわ」
 団員のほとんどは、アルビオン公用語があまりうまくない。アリアドネが印度の言葉で「父さんを呼んできて」と早口に言うと、団員のひとりがすぐさまこの場を離れて走り出した。
 団長の父ラムダスが不在のおりで間が悪かった。世慣れたラムダスは下手なアルビオン語をまくし立てて煙に巻いたり、嘘泣きで同情を誘ったり、果ては相手にこっそり袖の下を握らせるのもお手のものだ。そのラムダスが出先の今、父に代わってサーカスを守るのは娘の自分の役目だと、勝気なアリアドネは踊りに使う三日月形の飾り刀を外套の下に隠し持ち、痩せた体で警官の前に立ちはだかった。
「……ごきげんよう、市警さん。せっかくのいい夕べですのに、どうかなさって? このパークはわたしのお庭ですもの。なにかありましたら、こちらでうかがいますわ」
「へえっ?! しらっ、白雪姫様であらせられっ?!」
 先ほどまでの偉ぶった態度はどこへやら、飛び上がるほど仰天した警官は、ぎくしゃくと背筋をのばしたあと、しゃちほこばって敬礼した。
 声の聞こえた低いところにアリアドネも視線をおろしてみれば、いかにも貴族らしい身なりの、肩にふっさりとかかる黒檀色の髪を白い繻子のリボンでわけた小さな女の子が、こちらも白の手袋と二重回しの外套という上等な外出着で立っていた。女の子の背後には、髪から古風な衣装からすべて暗夜色づくめの、背の高い従者が胸の前で腕組みしこわい顔で控えている。燃えるたき火のほのかな赤さの中でも、銀縁眼鏡をかけた従者の顔は黄みがかっていて、まっすぐな固い額髪はお稚児のように肩で切りそろえてあった。
「白雪姫様のお手を煩わせるようなことではございませぬっ! 不逞の印度人はすぐにあなた様の荘園から立ち退かせますので!」
 サーカス団を石打ち追うごとくだった警官の威勢が、印度王国を配下におく大英帝国女王のおわす帝都中枢に近くある地位を根拠として、小さな女の子だろうが貴族令嬢が相手とくれば、階級意識に忠実な警官が今さら権威を傘にきるはずがなかった。
「わたし、サーカスを楽しみにしてますの。ですから、このひとたちがパークからいなくなると困りますわ。ねえ、あなたたち、このサーカスに象はいるかしら?」
 警官相手では埒が明かないと見たのか、白雪姫様と呼ばれた女の子はアリアドネをふくめたサーカス団のほうに話しかけてきた。
「もうしわけございません、お嬢様。あいにく、サーカスに象はおりませんが、ほかの動物でしたら」
 女の子の身分がわからず、アリアドネが「お嬢様」と言ったのがまずかったのか、従者の気配がわずかに色めき立つ。それをいったん無視して、アリアドネがヒュウッと口笛を鳴らすと、暗がりに停めてあった荷馬車のひとつから一陣の風がさっと吹き寄せた。
「星星《シンシン》! おいで!」
 その風は夜空に白銀をきらめかせ、警官の頭ごしに山なりの弧を描いてアリアドネのかたわらに重く降り立った。
「まあ、雪豹《ユキヒョウ》ね! わたし、本物を見るのは初めてよ!」
 冬毛を茂らせた特大の山猫、といったふうな首輪付きの雪豹を目の当たりに、警官と、従者もぎょっとして立ちすくんだというのに、小さな白雪姫様だけが無邪気な歓声をあげる。
「お嬢様は物知りでございますねぇ。確かに、こちらの星星は雪豹に間違いございません。私どものサーカスの団長がその昔、市場で子猫と勘違いして買い取った珍しい動物にございますよ」
「額に星形の模様があるから、星星なのね。とってもおとなしいわ。おりこうさんね。さわってもいいかしら?」
「もちろんでございます。星星もお嬢様がお気に召したようで」
 猛獣の雪豹を恐れない白雪姫様の好奇心に、いかにも職務に忠実そうな実直な顔つきの従者が何事か言いかけるも、猫のように喉を鳴らす星星が威嚇の唸り声をもらしたように聞こえたのか、再び後じさった。
「はじめまして、星星。わたしはリィンセルよ。おともだちになってくれるかしら」
 まるで人間に言うように雪豹へ話しかけるリィンセルに、喉のあたりを逆毛に撫でられた星星は、気持ちよさそうに目を閉じる。
「おまえは寒いところの生まれだから煙霧京も平気でしょうけど、サーカスのひとたちは難儀なさってるんじゃなくて? ここでサーカスを打つ間、わたしの家の温室にみなさんでおいでなさいよ。温室はいつでもあたたかいから、印度のひとたちもきっと過ごしやすいと思うわ」
「姫様?! それは……っ!」
 星星に話しかける態での提案に、警官と従者がほとんど同時に抗議の声をあげ、うろたえる警官をよそに従者が続けて言い募る。
「野良の犬猫とは訳が違うのですよ! サーカス団を白雪公の邸に招き入れるなどと軽率におっしゃっては……!」
「雪花亭じゃないわ、温室のほうよ。まだ冬になってないとはいえ、夜には冷え込むし、ここはわたしのお庭なんだから、知らんぷりはできないわ。オクタビオやエヴァグリン夫人にはわたしから話します。わたしが白雪公の代わりに預かりますので、市警さんもそれでよろしい?」
 おっとりしたていねいな口調ながら、白雪姫のリィンセルはきっぱりと言い切り、階級意識に満ちた警官を階級によって納得させる。
 もごもごと言い訳しながら逃げるように退散する警官を尻目に、小さなリィンセルと視線を合わせてひざまずくアリアドネは、かしこまって言上する。
「ご親切なお嬢様は、帝国貴族の白雪公様のご家族でいらっしゃいますか?」
「白雪公は亡くなったお父様、わたしは跡取りなの。さあ、くわしい話は温室でしましょう」
「姫様!」
 警官は消えても、まだ従者が残っていた。
 もちろん獣に人間の言葉は分からないが、人の手で育てられた星星は賢く、声音にふくまれる言意を聞き分けるらしい。アリアドネとリィンセルの間で、前肢を折った星星が獲物を狙う姿勢でおそろしげな唸り声をあげるも、リィンセルの幼い小さな手が星星の白銀の毛並みにおおわれた首筋を優しくまさぐったら、すぐに機嫌が直った。
「コハク、そんなにきつく言わないで。印度のひとたちが、遠く離れたアルビオン大英帝国をあちこちうつるのはとっても大変なの。うちでは少しぐらいよくしてあげたいわ」
「姫様がなんとおっしゃられようが、自分が承服するわけにはまいりません。エヴァグリン夫人や、アダムシェンナ殿もきっと反対なさいますでしょう。喪に服するあなた様のお家に、誰であれ人をお招きするのはご法度と存じます」
 従者はよほどの堅物と見え、女主人に道理を説くとなると、かしこまって諫言を上げるどころか、耳の痛い小言がいくらでも口をついて出た。
「このようにいたいけなお嬢様を責めるなんて、アルビオンの男は卑怯だわよ」
 義憤にかられたアリアドネが割って入った。
「卑怯、だと?」
 まさしくサーカス団の踊り子といったふうな、アリアドネの俗な言い草がよほど引っかかったのか、従者の矛先が変わって内心しめた、と思う。
「ご親切なお嬢様がこちらの従者さんに咎められるくらいなら、私どもは今すぐ煙霧京を去ります」
「心配しないで。コハクは温室の手入れを任されるくらい、植物が好きなの。だから、サーカスのみなさんにお願いしたいのは、温室ではお行儀よくしてほしいってことね。そういえば、あなたのお名前をまだきいてなかったわ」
「サーカス団の踊り子の、アリアドネ・ラズーリでございます、お嬢様。あなた様のお優しいお心遣いには、団長の私の父と、ラムダスファミリー・サーカス団のみなに代わってお礼もうしあげます」
「わたしはリィンセルよ。こちらのコハクは、わたしの従者で家の執事もしているの。お父様とわたしは大の仲良しだったわ。アリアドネと星星が、わたしのあたらしいおともだちになってくれたらうれしいのだけど、どうかしら」
「お嬢様さえよろしければ、よろこんで」
「なら、リィンセルと呼んでちょうだい。おともだちなんだもの」
 お近づきになった相手とは決まってそうするのか、リィンセルは笑顔でうなずくアリアドネの手を取り、幼い手指に親しく握った。
 そこで、ばたばたと足音も騒々しく、アリアドネたちのもとへ駆けつける者がいた。
「―― なんということだ! アリアドネ、わが娘よ! 市警にたてつくなど危ないことはやめておくれ! ああ、みなも無事かね?!」
 追っつけ呼び戻されてきた、アリアドネの父でサーカス団の長、ラムダスだ。旅の途中で買いつけた茶人帽を、このごろめっきり寂しくなった頭のてっぺんにのせるラムダスは、腹回りがでっぷりとして恰幅のいい体つきに印度の更紗をつけ、その上に毛皮の外套を羽織っているので、もとから大きな体が一回り膨らんで見えた。
 ラムダスは常から感情の起伏が激しい感激屋らしく、芝居がかった身ぶりで華奢な娘をかき抱き、ああだこうだと泣き言を言い募りながら大げさに二人分の体をゆすぶっている。
「平気よ、父さん。こちらのお方様に助けていただいたの。アルビオンに名だたる白雪公様の跡継ぎでいらっしゃる、リィンセルお嬢様よ」
「ああ! これはこれは、まさに白雪姫様! よもやあなた様にお口添えいただけましょうとは! このラムダス、望外の喜びにございます!」
 その場にひざまずいたラムダスの巨軀が、娘のアリアドネに続き公爵令嬢のリィンセルにまですがりつきそうな勢いだったからか、従者で執事の忠義なコハクとやらが、今度はすぐそばの星星に臆せず幼い女主人の前へ進み出た。
「いつまでもパークで立ち話もなんでしょうから、ともかく温室へおいでいただいては」
 さしもの頑迷な執事でさえ、女主人の御身大事のためとあらば、あれほど反対したサーカス団の逗留をいっとき認めざるえないとは皮肉だ。父ラムダスの立ち居振る舞いがいちいち大仰なのはいつものことだし、全部が計算づくとはアリアドネも思わないが、結果として、執事のコハクは引き下がる羽目になった。
「わたしの執事は物分かりがいいわね。……サフィル、いるの?」
 なんの気配も感じられなかった木立のほうへリィンセルが声を投げると、使用人のお仕着せ姿の細身の人影が無音で現れた。肌の色濃いサフィル少年は宵闇に溶け込み、銀髪のざんぎり頭がいっそう明るくきわだっている。印度からきたにしてはあまり日焼けをしないアリアドネと比べても、銀髪といい少年の色濃さは他にないくらい独特だ。
「お呼びでごぜぇますか、姫様」
「先に戻って、エヴァグリン夫人に伝えてくれるかしら。サーカスのみなさんにあたたかいスープのふるまいを。コハクは、温室のボイラーの温度を少しあげてきて。もちろん、植物が枯れないくらいでね」
 コハクは性懲りもなくあと二言三言は小言がありそうだったが、嘆息ひとつであらゆることを飲み込んだのは仕事熱心といえよう。先に背中を向けたサフィルに続き、「かしこまりました」と杓子定規に述べてきびすを返す。
「わたしたちもいきましょう」
「ありがとう、リィンセル。……さあ、みんな! こっちよ!」
 リィンセルに手をひかれたアリアドネが号令し、さっそく便乗した父ラムダスが、「ほら、行った行った! 遅れるんじゃないぞ!」と太鼓腹をふるわせ声を張り上げた。

 鳥籠の温室はほのあたたかく、印度のような熱暑はないけれど、アルビス島の寒さと霧に悩まされていたサーカス団のひとびとはすぐにここが気に入った。中でも星星は水路に鼻先を湿らせて水を飲んだり、レンガを敷きつめた床に寝転がったりしてたちまちくつろぎだす。まだ目もろくに開かないうちからずっと、アリアドネが山羊の乳を飲ませて世話した星星は、人馴れしたせいで野生の獣とは少し違っていた。動物好きなお姫様とはいえ、星星がリィンセルをあまり警戒しないのも、なかば家畜のように飼い馴らされているからだ。
「さあさ、みなさん! 野菜のスープをあがってくんなまし!」
 湯気のあがる大鍋のそばで、木杓子を握った少女は豊かな茶褐色の髪をひとつにまとめ、洗いざらしの前がけをつけている。先ほどのサフィル少年と似たり寄ったりの女中のお仕着せ服だ。スミレ色の瞳が白い顔の中で明るく輝く女中の隣に立つ褐色のサフィルは、サーカスの団員たちに皿を配っている。
「……あちらのお女中さんは?」
「ヴァイオラよ。サフィルとは双子で、彼女のほうがお姉さんなの」
「双子?!」
 驚きに思わず大きな声をあげたアリアドネのような反応には慣れっこなのか、リィンセルは幼くまろい頬に大人びた笑みを浮かべた。
「スミレ色の瞳だからヴァイオラ、空の蒼眼だからサフィル。ふたりがまだ小さいときイーストエンド街にいたのを、お父様がつれてきたそうよ。わたしのお父様と会う前からずっといっしょだったから、双子なんですって。“うち”ではね」
「はあ、たまげた」
 つい地の訛りがもれたアリアドネが、温室のあたたかさに外套の頭巾をはずすと、今度はリィンセルが驚く番だった。
「あらまあ! アリアドネは印度の人とは違うわね?」
 つむじに結った脂気のない乾いた金髪は、アリアドネの背から腰までを波打っていた。浅く日焼けした顔にそばかすが散っているのも、高い鼻筋の薄皮がしょっちゅう剥けるのも、もとは白い肌に印度の日差しが強すぎたせいだ。
「ヤーパンの血を半分混ぜた自分よりよほど、アルビス人に近しいのでは?」
 なんとなく嫌味な口調に聞こえたのは、相手があの頑迷な執事だからではないと思いたい。眉をしかめたアリアドネが、ゆるくうねる金髪をそよがせて振り返ると、やはりあの額髪に銀縁眼鏡をかけた執事のコハクだ。フロックコートを脱いだ長身の青年は、折り目正しいシャツの袖を無造作にまくりあげ、土に汚れる庭師用の手袋をした両手に、石炭カゴと火かき棒をそれぞれぶらさげていた。温室のボイラーにくべる石炭を、母屋のほうから運んできたようだ。
「アルビオンは寒いわね。そこの執事さんのおかげでこの温室はだいぶあたたかいけど、印度ほどじゃあないわ。私、印度の踊りの衣装で風邪をひいたらどうしようかしら」
 つんとあごをあげたアリアドネが、親しみどころか当てつけがましい口をきく底意をまったく正しく受け取ったらしいコハクは、杓子定規を通り越していっそ不愉快があらわな顔つきになった。
 胸をそらし、肩をいからせて立つアリアドネに対するコハクは、「初代白雪公にボイドの名を下賜された執事の家に生まれた以上は」と前置きし、「祖先からくまなく混血であるのだから、さきほどの市警のような口をきく訳にはいかない」としかめつらしく言った。
「……『ボイド』……、『何も無い』?」
 アリアドネのたどたどしい問いに、コハクは首肯する。
「『虚無』だ。何も無く、何者でも無い。最初のボイド家の男は、砂漠を渡るキャラバンに属したという以外、はっきりした出自は分かっていない。『虚無』に執事の役を与え、最初の意味をくだされたのが白雪公だ。自分もボイド家の男のひとりである限り、白雪公には一命を賭してお仕えする」
 あれほど厭うた父イヴォークが存命であったなら、きっと口にしたであろう言葉を、同じく自分も発したことにコハクは苦い顔をしたが、そういった事情を知らないアリアドネは、何を聞かれようが言われようがにこりともしない執事だと思っただけだ。
「コハク、雪花亭の様子はどうだったかしら?」
「エヴァグリン夫人が厨房で大わらわなのはともかく、アダムシェンナ殿が卒倒しそうになっておられました」
「二人にはあとでよくお願いしておきます。……アリアドネ、スープを食べ終わったらあなたたちの荷馬車を温室のそばに寄せるといいわ。パークでサーカスを打つあいだ、うちの中庭でかまどを組めば、市警さんもおとがめにならないはずよ。駄馬の飼い葉は明日にでも取り寄せるわね。今夜の寝床の準備を手伝わせましょうか?」
「いいえ、とんでもない、じゅうぶんよ。リィンセルと友達になれて私は幸運だわ。あなたがたと神に感謝します」
 アリアドネが神を口にした途端、コハクの気配がこわばった。もともとお堅い風情のコハクだが、永久に凍りついた氷壁のようにいよいよ冷ややかになる。氷壁とはいうものの、石炭をさげたコハクは不動の構えどころか、リィンセルやアリアドネのもとを足早に離れ、温室のボイラーのところへそっけなく立ち去った。
 姿の消えたコハクと入れ替わりに、かしこまってリィンセルの御前へ進み出たのは、茶人帽をはずしたラムダスだ。
「白雪姫様のご高配におかれましては、このラムダス、感謝してもしきれるものではございません。ここに改めて深謝いたします」
 スープを腹に入れ、温室のあたたかさにひと心地ついたラムダスは、ずいぶん落ち着いていた。幼いとはいえ貴族を前に緊張したのか、手の中で茶人帽をやたらと揉んでいる。
「煙霧京のひとたちは、きっとサーカスをよろこびますわ。近いうちに、わたしも見にうかがいますわね」
「なにからなにまで、本当にありがとうございます。ぜひ、お越しくださいまし」
 丁重に膝を折ったラムダスが深くおじぎすると、髪がまばらにはえた頭のてっぺんの浅黒い地肌が、小さなリィンセルにもよく見えるようになった。

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