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歌人見習いが車の免許を取るまで日記 その8

受け損ねていた残りの学科と足並みを揃えるため、この一週間は実車せず。
I先生(仮名)が恋しい。元気だろうか。

そして第一段階の学科、実車が終わると仮免許の検定、それをパスすれば第二段階は教習所を出ていよいよ町を走ることになる。町。それは現実、リアル、まさに「世界」だ。

ほんとうに予定のある人たちがほんとうにその目的地までほんとうに「ほんとう」を運転している。ほんとうに囲まれたリアルな世界に、ワタシも仲間入りするんだと思うと胸が高まり、手のひらには早、じっとりとした汗を感じる。しかも高速実習もあるという。
場内を時速15kmで走っているワタシが高速なんか、イッちゃって大丈夫なのだろうか。ほんとうにイッてしまうのではなかろうか。
I先生(仮名)を殺さないようにだけ気をつけたい。あとできれば自分も死にたくない。

なので今回は車を買ったおはなし。

そう、なんと、この度、車を買った!
つい先日の結婚式及び披露宴及び二次会で預金はほとんど吹っ飛んでいったにもかかわらず。ヘッダーにした凍狂の空を舞うカラフルな風船たちも、結婚式でワタシがどうしてもやりたくてとにかく夫に駄々をこねまくってやらせてもらったバルーンリリースというやつで、これ以外にもありとあらゆる一瞬で終わるアレコレのために金は文字通り飛んでいった。空高く。

それでも車を買った。ローンを組んで。

自家用車である。

生まれてこのかた、実家に車がなかったものだから、自分が車を所有するなんてとても不思議だ。ドキドキする。

思えば子どもの頃は「家に車がない」というのは大変にしんどいことだった。端的に言って非常に肩身が狭かった。

地元がいわゆる裕福な沿線のそのなかでも割とハイクラスな駅であったからというのもあるかもしれないけれど、とにかく自分の家以外に車を持っていないクラスメイトはいなかったんじゃなかったか。

給食の時などに話すクラスの男女共通の話題のなかには必ず「自分ちの車の話」があったように思う。「オレんちの車、新しくなったんだぜ」とかから始まり、「お前んちの車、何色?」「ってかこの前お前んちの車走ってんの見た」などととにかく自分及びお前んちの車バナシというのは小学生のかっこうの話題だったのだった。
その空気のなかで、かつまた一応は某高級住宅街た◯プラーザの住人として(当時そんな自覚はなかったが)、家に車がない、なんてとてもじゃないが、言えない。
だからたまたま「お前んちの車、何色?」なんて無邪気に男子から質問されたりすると「うーん、黒」とか答えていた。嘘だ。うちには車なんて、ない。

たまに友人の家の車に乗せてもらうことはあれど、慣れない車の揺れになんとか身体を保とうとするのに精一杯で、車がどんな構造でどんな風になっているのか、その細部についてはイメージなどできなかった。
なんとなく黒くて、シュッとした、そう流線型のそれ。

ワタシは自分の家の架空の車をそんな風にぼんやりと所有していたのだった。
靄のかかった黒い車。幻の、クルマ。

恐ろしかったのは小学校五年生の時にあった社会科見学だ。トヨタだったか日産だったか、とにかく自動車工場にゆくという。ワタシは絶望した。ほとんど死にたかった。大げさでもなんでもなく。その単元、授業が始まることをほんとうに心の底から恐れていた。毎晩毎晩、布団の中でとにかく祈った。どうか何事もなく、終わりますように。誰も自分をバカにしたりしませんように。というか先生が気を変えてそんな嫌な授業なんてやめてしまいますように…

しかし、その日はやってきた。

先生は授業の冒頭、こう質問した。

「おうちに車、ある人〜」

なんという直球。ストレート。予期してはいたものの、現実に起こる、その破壊力はすさまじい。息がうまくできない。みんな一斉に手を挙げる。ワタシも目立たないようにそっと手を挙げる。目をつぶって、想像上の、黒い車をどうにか、呼び寄せる。

すると車はゆっくりと、こちらにやってくる。誰が運転しているのだろう。音がない。ゆっくりと、こちらへ。ライトが光ってまぶしい。息が吸えない。ゆっくりと。目が開けられない。ゆっくり。こちらへ。

✴︎

社会科のその単元は地獄だった。社会科見学の当日も地獄だった。地獄だったことは覚えているけれど、しかしその詳細は覚えていない。とにかく、その死闘(単元)は終わったのだ。

ただ、あの日あの時の教室のふんいき、感じ、風、あの瞬間はずっと覚えている。

「うち、車ないんだよね」とはじめて言えたのは大学に入ってからだったか。さまざまな価値観を知るうちに、家に車があるかどうかなんて、どうてっことなくなっていった。都会なんだからなくたって不自由なく暮らせるし、車を持たないことだってひとつの価値、ということも知れる。車がないから貧乏、ってわけでもないことも今なら分かる。しかし小学生の頃は、あれが全てだった。今思えば恐ろしい世界だ。

価値が多様でない世界のしんどさははかりしれない。とくに学校は。学校におけるマイノリティ、なんて大げさかもしれないけれど。おっとこれ以上書くと教育議論になってしまいそうだ。


ああ、車を買ったはなしをするはずだったのに、昔の話で終わってしまったナ。

さていよいよ次回は、

「謎の転校生、松田ベリーサちゃん現る!」

です。お楽しみに。

#エッセイ #コラム #車 #免許 #短歌 #思い出 #くらし #学校

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