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「五行歌的人間」ってあるだろうか

 こんにちは。南野薔子です。
 坪内稔典氏の『俳句的人間 短歌的人間』(岩波書店)という本で読んだことをめぐって思ったことなど書きます。

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 坪内稔典氏の『俳句的人間 短歌的人間』(岩波書店)については、十年くらい前、堺雅人氏の雑誌連載エッセイで存在を知った。ちなみに、その後そのエッセイは『文・堺雅人②すこやかな日々』(文藝春秋)に収録されている。
 そのエッセイで触れられていた「俳句的人間と短歌的人間の区別」が面白くて、わりとすぐに坪内稔典氏の本を入手して読んだ。この本はタイトルこそ『俳句的人間 短歌的人間』だが、その話ばかりではなく、短歌や俳句、そして詩歌をめぐるさまざまな興味深い文章が読める。が、今日は俳句的人間と短歌的人間の話にしぼる。
 短歌的人間は「主観的、情熱的、自己陶酔的、真面目」、俳句的人間は「客観的で冷静、自己をも茶化す道化的精神」が特徴であるとのこと。
 もちろん、これはあくまでざっくりとした分け方であり、短歌をやっている人が全部短歌的か、俳句をやっている人が全部俳句的か、というとそうでもないだろう。もちろん一人の人間の中に両方が存在することも十分あり得る。また、短歌や俳句をやっている人のみならず、人間のタイプ分類としても応用可能だ。ちなみに堺雅人氏は自らを「八対二で俳句俳優」だと述べている。セリフまわしには「うたう」「突き刺す」の二タイプがあるといい、ここぞというときに八対二くらいの割合で「突き刺す」方だという自分は八対二で俳句俳優だという自己分析だ。

 俳句的人間と短歌的人間というおおまかな性質の違いは、もちろん詩型の違いに由来することが『俳句的人間 短歌的人間』に述べられている。要するに短歌は七七の分、云えることが多くそこに「自分」が出てきやすい、対して俳句は短く凝縮し「自分」は省略して相手に委ねるところが大きいということだ(坪内稔典氏はそういう性質が現実にあらわれる場として歌人と俳人の出版記念会でのふるまいの違いを挙げていて面白かった)。
 じゃ、五行歌はどうなんだろう、と読んだ当時私は考えた。
 なんとなくだが、五行歌界にはどちらかと云えばだが、短歌的人間の方が多いような気がする。それは詩型的に、五句構成であり、また音数は決まっていないものの、平均的な音数は俳句より短歌に近いと思われるということがある。創始者である主宰の草壁焔太氏が短歌出身ということも影響しているかもしれない。どちらにせよ、分量的には「自分」を出すことが十分可能な詩型だし「自分」を出す人が多いとも思う。
 とはいえ、五行歌の中には、短歌っぽいものとか俳句っぽいものとか川柳っぽいものとか自由詩っぽいものとかいろいろあり(他の詩型を経由して、あるいは並行して五行歌を書いている人もある程度いることも影響しているだろう)、またもちろんこれはまさしくいかにも五行歌らしい五行歌だなあというものもあり、とにかくバラエティーがあるので、短歌や俳句よりも、人間のタイプのばらつきは大きいかもしれない。もっとも現在は実作者の数において、五行歌は短歌俳句より圧倒的に少ないので、説得力のある話を展開するのは現時点では難しいかもしれないが。
 「俳句的人間 短歌的人間」の列の中に自然に「五行歌的人間」という分類が入るようになるといいなとも思いかかったのだが、むしろ、タイプの幅のばらつきが大きくてそういうある程度確立した分類ができませんね、という方がより「五行歌らしい」ということかもしれないなとも思う。

 ちなみに五行歌の書き手としての私個人は、俳句的か短歌的かで分類するならば、基本は短歌的なんだろうなと思っている。五行歌を書く場合の動機としては「私はこれが表現したい」という主観的なものが強いから。しかしできあがった五行歌にいわゆる私性をあまり出したくない方だということもあり、表現として作り上げていく過程では俳句的な性質も働かせていると思う。作品によってどっちの力が強くなるかはまちまちだが、平均すると、最終的にできあがった作品に働いたエネルギーは短歌的と俳句的が五対五ぐらいになってきているのではないかと思っている。というか、そうでありたいと思っている今日この頃である。できあがった五行歌自体は、私は自由詩を五行歌より前から書いてきたこともあり自由詩的な雰囲気が強いものが多いと思うけれど。まあもちろん自由詩の中にも短歌的な要素と俳句的な要素が入り混じっているわけで、そのへん突っ込んでゆくと話がややこしくなってゆくのでやめておくけれど(堺雅人氏も、俳句というものを詩歌の中で見て、文学の中で見て、学問の中で見て、と視野を広げていってどんどんややこしくなってゆくさまをユーモラスに記述していた)。しばらく前から短歌と俳句(俳句なんだか川柳なんだか自分でちょっと迷っている)も書き始めたので、それを通じて自分の中の短歌的、俳句的要素にそれぞれ磨きをかけることができて、それを五行歌や詩にも還元させて、また五行歌や詩で培った感覚を短歌や俳句に還元させて、というような循環ができるといいなあと漠然と思っている。

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