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「男性」に認められないと立ってられなかった私が『全裸監督』を見て思うこと

村西とおるの炎上

AV監督の村西とおるがエイズ予防啓発キャンペーンに出演する件で、炎上が続いている。


 村西に関する炎上については、前からTwitterで目にしていた。特に、「AV強要問題でフェミニズム運動の先人をきっている女性弁護士のどちらさまも、男性には縁のなさそうな人たちに見える」という発言を見たときはその浅はかさにひっくり返りそうになった。

 フェミニストはモテない人の僻み--なんて思い込みを未だに持ち続けている彼の無知と、それをひけらかすことがあたかも”斬新な”言い分であるかのように振る舞うその態度にも目を疑った。この発言含め、彼が「女性蔑視的である」と呼ばれることには間違いがないし、私も彼の人格を肯定しない。 

 しかし、2019年10月24日(木)にNewsweekの記事「話題作『全裸監督』が黙して語らぬ、日本のミソジニー(女性嫌悪)」を読んだとき、少し考え込んでしまった。

 私はその1ヶ月ほど前に、私は村西の女性差別的な人格上の問題点と、この作品が女性蔑視的な側面を持つらしいという前提、その両方を頭に置きながら『全裸監督』を見た。
 そのうえで上記の記事を読んで感じた違和感は、「ミソジニー」という言葉でこの作品があまりにも簡単にまとめられていること、そして本作のAVに出演した女優たちが、村西に「搾取」された「被害者」としてしか語られていない点だ。
 『全裸監督』=ミソジニー作品という主張において、私が画面の向こうの彼女たちに感じたシンパシーが、まるでないものとされているように思ったからだ。

「本当の自分」を利用した脅迫

 先の記事が批判しているように、『全裸監督』が、これまでに何度も肖像権の侵害に関して訴訟を起こしている元AV女優黒木香の許可を得ないままその名を使用したこと、またその手続きに根本的な欠陥があったことは確かだ。また、「コンプライアンス」に盾突く作品であることをことさらに強調する本作のプロモーションに関しても、とても安直で下品であると思う。  
 だが、あくまで『全裸監督』を作品として見たときに(ということすらも是としない人がいることはわかりつつも)、そこで描かれる女についてもう少し語る余地があると思う。
 
 そうを感じたのは、本作における一番の「被害者」であるともいえる、村西の説得によってAVで本番(挿入を伴うセックス)をさせられて、社会的に追放されることになる女優と村西の間でなされる以下のようなやりとりだ。

「あんた(AV制作会社の社長)の作品はちっとも抜けないな。女優が感じていないのがわかるから見ていてシラける。みんな顔が死んでいる。特にあなた(女優を指さす)。顔がまるでロボットのようだ。」 
「えっ」(女優は戸惑う表情をして、怪訝な顔で村西を見つめる)


 その女優ミクは、田舎の農家から一人上京し、村西が監督業を行う「サファイア企画」のライバルである大手のAV制作会社の専属女優として働きながら、クラブで遊び歩く日々を送っている。実家の家族には会社勤めだと嘘をつき、表面上は華やかな毎日を送るミクが実は借金を重ね、鬱屈とした不安を抱えていることが作品中で示唆される。
 ミクは公衆の面前での村西の自分への批判に対して激怒する。それに対して、村西は自身作品への出演を迫り、以下のように説得する。

「自分の人生くらい自分で生きたらどうだ。偽物の毎日。偽物の恋愛。そんなんじゃ退屈でつまらないだろう。」


 その一言はたまたま同じクラブに居合わせた黒木香の耳に入る。当のミクは、最初こそ村西を拒絶したものの、結果として強引に積まれた200万円によって村西へのAVの出演を承諾する(それは別会社の専属女優であるミクにおいて、業界から干されかねないタブーな行為だ)。
 その段階においては、ミクが村西の言葉によって動かされたのか、積まれた大金によって動かされたのか、定かではない。
 そして問題になっている、本番強要のシーンに移る。 
 撮影前、村西の部下であるメイクのスタッフに「ミクちゃんには(ミクが所属する会社の監督よりも)うちの監督の方が合っていると思う」と言われたミクは、「私もそう思う」と照れくさく笑う。徹底的なモノローグが排された本編において、どこでミクの村西への心境が肯定的に変化したのかは描かれていない(そういう狡さがこの作品には溢れている)。
 ミクは村西の作品の出演に臨むが、前張りを張ったセックスのわざとらしさに、村西は激怒する。 
「おまえは俺をなめているのか」
「俺は死ぬ気でおまえと向かい合っている。受け止めてやるから全てをさらけ出せ」
 村西はこうしてミクを責め上げたうえで、
「前張り取るか。こんなものつけているから、いつまでも鎧がとれないんだ。一回本番でやってみろ」
と言い放つ。
 当時AV撮影での本番行為は禁止されていた。それに対してミクは拒否するが、「いいかミク。本番なんてのは世界ではフツウなんだよ。偽物のセックスなんか撮ってもしょうがないんだ。強制はしない。おまえが決めろ」と伝える。
 結果的に、「100万積む。本当のおまえを見せてみろ」。その言葉で、ミクは本番セックスでのAV出演を承諾する。 

 引用していて胸が痛くなるほど、このやりとりは非常に高圧的でもはやミクは脅迫されているように見える。また、AV出演への強制が深刻な問題になっている現在において、本編での女優への本番行為の強要が、あたかも彼女たちの「本当の自分」の解放や、自己実現、自己肯定にかこつけて行われているように描かれていることにも(そしてそれが監督の男性的な目線によってなされていることにも)、わたしたちは敏感にならなければならないだろう。ある意味、彼女の弱さと孤独に対して村西がつけこんでいる、とも言える。
 ライバル会社のAVに出たミクは、業界内で強い権力を持ち警察とも結託している所属会社の社長の根回しによって週刊誌で報道され、業界はおろか社会的に追放、田舎に帰る。


『全裸監督』は「女性の敵」だと私は言えるのか


 私は、この展開に倫理的な異議を感じつつも同時に、このように”男性の手による自己肯定”を、女である私が一切求めていないのかというと、じっと考え込んでしまうのだ。
 そこで考えたいのが本作における黒木香だ。村西がミクに言い放った「自分の人生くらい自分で生きたらどうだ。偽物の毎日。偽物の恋愛。そんなんじゃ退屈でつまらないだろう。」の言葉を耳にした黒木は、村西に連絡をする。黒木もまた、自身の性への興味に蓋をし、偽り装う日々に葛藤していた。 
 彼女は村西にAV出演を願い出た際に、村西からなぜAVに出ようと思ったのかを問われ、こう述べる。 

「本当の自分でいたくなったから。--自由で、奔放で、もしかしたら汚らしい自分です。ありのままを生きたいんです。……どうしたらいいですか?」

 村西はこれに対して、文脈からは唐突とも言える「君は、男性に何をして欲しいの」という問いを彼女に投げる。黒木は少し考えた後、「まず、安心させて。・・・・・・それから、抱きしめてほしい。」と告げる。
 それを聞いた村西は、黒木を強く抱きしめ、黒木は「ずっとこうして欲しかった」と涙する。
 クリスチャンの母と2人で暮らし、父親はおらず、クラブでは男性を避け、性的なものに対するタブー意識を押しつけられてきた黒木は、母の抱擁では埋まらない空白を抱えていた。彼女が求めていたのは、男性と触れ合うこと、抱擁され、肯定されることだった。
 黒木が村西の抱擁によって涙したのは、黒木自身が強く男性を求めると同時に、男性という存在を忌避していた(させられていた)からだろう。異質な存在であると感じるものからの批判と肯定ほど強い衝撃をもって自らに染み渡ってしまう。

 繰り返しになるが、たとえそうだとしても、黒木やミクの生きづらさに村西がつけ込み性的に搾取した、と形容されても否定できないし、こうした批判的検討を頭において見ないと、性差別を彼女たちの弱さをダシに肯定されかねない。 
 しかし、彼女たちの被害者性だけを切り取って、この作品を「女性の敵」として安易に捉えてよいのか。ミクは本番でのセックスを行いながら生き生きと演技をし、絶頂を迎えた後、村西に賛美され、ほころんだ顔を見せる。また黒木においては、AV撮影前に生やし続けたわき毛を見せつけ、「これが私です」と述べ、村西に「剃る必要はない、とても素敵だ」と言われることで深い肯定感を得る。
 それらが彼女の境遇を利用した性的な搾取であることを認識しつつも同時に、そこには、批判も厭わず本気で向き合ってくれたうえで深く肯定されたいという彼女自身の中にある孤独に根差した欲望が透けて見えるのだ。

 黒木やミクが、男性からの介入的な肯定を求めずにはいられなかったこと、そして彼らがその末に一瞬でも感じた喜びや安心感を、きれいさっぱり無化してよいのだろうか。もちろんそれによって、この二人の間にある搾取の構造や、力関係差異が物語的に美化されているのは確かだ。
 しかし、現実にそういう場面はないといえないのではないか。私には、自分が感じている孤独やしんどさを、異性によって、共感あるいは批判で深く眼差して欲しい、と思うときが、確かにあるのだ。たとえ社会的な善やコレクトネスに馴染まないとしても、その一言、その抱擁がなくては立っていられない時が、確かにある。 

 女性蔑視だ、搾取だ、と言い切る前に、私は自分の中にある、男性からの承認がないとかろうじてでも立っていられない、というようなある種の弱さを見て見ぬふりしてこの作品を論じたくない。まだうまく言えないが、この監督はそんな彼女たちを決して馬鹿にはしていないような気がする。

  男から性的に搾取され、利用される彼女たちの前に立って、#Metooと述べることもできる。だが、少なくとも私は、「男性」に認められないと立ってられなかった一人の女として、彼女たちと近い場所で「そういうことって、あるよね」とか細い共感を抱きながら、シーズン2を待ちたいと思う。 

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