わたしも、”愚かな人”

「若い人に見て欲しい」、みたいな言葉を聞くと、居心地の悪い気分になる。若者への期待、をむき出しにされるとき、その若者には、顔がないように感じてしまうからかもしれない

自分のこれまでを振り返ってみると、「若者への期待」に応えがちな25年間だったと思う。
この前京都を歩いていたら、ご高齢の方が2人で九条を守る署名活動をしていた。
呼び止められ、「子供を戦争にいかせないために」「あなたにも関係あるのよ」なんて言われると、微妙な罪悪感を喚起され、署名をする。
来るか来るかと思っていたらやっぱり、「あなたのような若い人にこそ関心を持ってほしい」と言われた。なんとか笑顔を作って、その場を去る。
署名や九条を守る活動は大事だとは思う。しかし最後の一言で、とてつもなく疲れて「はあ」とため息をついてしまった。

そういえば今年の春に万博反対デモをしていたときも、「がんばれー!若いの—!」って、反原発チラシをまき終わって帰っているご婦人2人が歩道から叫ばれた。「応援してくれてありがとう!」という気持ちになったその直後に、「ああ…またこのおなじみの感じだ…」と、どんよりした気持ちになってしまった。

さて唐突であるが、『主戦場』を京都シネマで見た。

太平洋戦争期、日本軍は朝鮮やアジア諸国の女性20万人を従軍慰安婦として強制連行し、性奴隷として日本軍への性的奉仕を強いた。これを事実と認めるか認めないか。この二つの立場それぞれへの単独インタビューによって構成されている。


 この作品は、「事実でない」と主張する側がいかに情報に対して恣意的な解釈を下し、雑な認識の上で差別意識を持ち、論理的破綻を繰り返しているかを映し出している。
自称「ナショナリスト」による語気の強い過激な差別的発言が発せられた後、ナレーションによる「本当だろうか?」という問いかけがなされ、検証として、それらを「事実」だと主張する側のインタビューが映し出される。【「事実でない」派→「事実」派→「事実でない」派→「事実」派】。
作品の中で繰り返されるこの順序は、「事実でない」側の論理的欠陥を見事なまでにありありと浮き彫りにしている。
そしてその根拠の明示方法は、史料の捉え方、数の問題、時系列の問題など多岐にわたり、さまざまな形で、「事実でない」と主張する側がどう考えてもちょっとおかしいだろう、と思わずにはいられない。
「事実でない」と主張する側の興奮気味の支離滅裂の主張が「事実」側によって冷静に欠陥を指摘され、ひたすらに処されつづける二時間である。

 論理的矛盾や史実の恣意的解釈はもちろん、倫理的に逸脱した暴言、差別用語、悪口を強い口調で発する「事実ではない」と主張する側の姿はただただ愚かで滑稽であるのだが、これを見て、スカッとはしていけないのだと思った。つまり、これを見て「やっぱり慰安婦が嘘だとかいうやつらは愚かなんだなー…」とまとめあげたり、「ネトウヨやばww」みたいに蔑視の対象として盛り上がることは、この映画は求めていないように感じる。
つまり、「やっぱり歴史を知ることは大事だ」と学ぶためだけにこの作品はあるのだろうか、ということだ。彼らが愚かであることはもうどうしようもないのだが、見る側に求められているのは、「事実ではない」と主張する側と、自身の接点を見出すことなのではないか。つまり、愚かに映し出されているものを、自己から周縁化しないこと。

『主戦場』が描くのは、極めて凡庸な言い回しで恐縮だが、「弱さを認めるのは難しい」ということであるように思う。抑揚をつけて、まるで三文映画のような表情をして朝鮮人を罵倒する国会議員、謝るという事は国家はしてはいけない謝った時点で国家は終わりだと理由もなく繰り返す憲法学者、誇張した表現をしては一瞬自戒し言いよどむジャーナリスト。
彼らは、何かを恐れている。何を?それは、日本の過ち、誤り、弱さと愚かさを、認めることである。彼らが国家に自己を同一化した表現をしているさまを見ると、国の愚かさを認めることは、自分の愚かさを認めることと同義なのだろう。つまり、自分/国の欠陥を認めることを、恐れている。
 だとすれば、落ち着きのない目の泳ぎ、どこか不安げで、なにかを振り払うように言葉を放り出す彼らの表情は、私のそれと全く違うと言えるだろうか。

決していえない。日本は過ちを犯した、と迷いなく言える私は、ただ国と自己を同一化していないだけであって、自分の弱さや愚かさを認めることを恐れている点においては彼らと違わない。私ももしかしたら、自分の弱さを覆い隠そうとするとき、彼らのように目を泳がせ、不安げに無思慮な言葉を放り出しているかもしれない。

 画面に映る、いわれもない妄想によって敵対し、暴言を繰り返す彼らと、自分が同じ部分を持っている、ということを、知るために、私はこの作品を使いたいと思った。愚かなものを見て、自己の正しさを確認するカタルシスに使ってはならないのだ。いや、少々無理してでも、是非そのように観るべきだ。この2時間で課されているのは、”すっきり”してしまうことへの、自己批判的攻防戦である。

「若い人に見て欲しい」「若い人に来て欲しい」とかいいういわゆる左派年配者の夢をたくさん叶えてきてしまった私は、彼らの執拗な活動に対して敬意を抱くと同時に、正直、彼らのようになりたくないと漠然と思っていた(もちろん全員がそうではない。でも、接してきた人はそのような人が多かった)。
それはなぜなのか。「若い人」を匿名化し、彼らにゆるぎない何かを押し付ける(押し付けられた、と感じてしまった)、その時点で、自分の思想の正しさへの懐疑を放棄していること、自分を正しい位置に置くことへの無自覚さが、ただただ恐ろしかったのだ。
そのために、まだあがけると思っている。だから、『主戦場』が写しだす、愚かで弱く事実を捻じ曲げる人々と自分の接点をつかみ、ふるまいを模索するところに、何かがあると思っている。



 



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