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平安のエース

「太田 翼」というサウスポーが僕らのエースだった。公式戦初登板は3年夏の大会の準々決勝。この日が来るまで原田監督はエースを隠し続けた。
太田は中学時代に僕と同じチームの生駒シニアでプレー。現在、読売ジャイアンツの今村信貴と二枚看板だった。弱小チームだったが太田と今村がいたから試合にもそこそこ勝てた。打っても投げても何をしてもセンスがあって本当に頼れる存在だった。そして平安高校に進学。卒業後は近畿大学でプレー。そして社会人野球の強豪・日本生命へ入社。3年間プレーして野球を引退。現在は社業に専念している。

中学生の頃、原田監督は生駒シニアの練習に来て、ブルペンで太田の投球を見た。力んだ太田はマウンドとホームの真ん中くらいでバウンドするパワーカーブを投げ込んでいた。原田監督は笑いながら「そんだけ腕振れるんやったらええやんけ。」と言った。そして平安に行くことが決まった。
入学後は外野手としてプレー。最初は平安の練習量と雰囲気に耐えるので精一杯だった。尿に血が混じっていたこともあった。シニアの練習は土日のみ。いくら平日に自分で練習しようと朝から晩まで毎日練習する高校野球に慣れるのは大変だった。マネージャーの僕でさえしんどいと思ったくらいだ。選手はその何倍もキツかったと思う。でも大半の人は辞める勇気は無かったし、何よりも甲子園に行きたかった。それは太田も僕もみんな同じだった。中学の時から打っても投げてもスーパースター。何をやってもセンスが光る太田が苦しむ姿は平安の厳しさを物語っていた。それでも次第に全員が慣れていく。目に見えて強くなっていくみんなはとにかくかっこよかった。サブグラウンドで練習していた下級生は、そこでアピールしてやっと上級生たちの練習に呼ばれていく。練習中に名前が呼ばれ、メイングラウンドに向かっていく同級生は戦争に行くような面持ちで勇ましかった。太田も比較的早くにメイングラウンドで上級生たちと一緒に練習していた。時間が過ぎるのと同時に試合にも出れるようになっていた。

しかし上級生になるにつれて求められることも増えてくる。人間としてどうあるべきかを求められた。太田は本当に他人に無関心で自分が良ければそれでいい。どうやったらうまくサボれるか。どうやったら怒られないか。そういうことを考える人間で、監督が大切にしている「自覚と責任」という言葉から程遠い存在になっていた。練習がキツいから自分のことで精一杯になるから余計にそうなっていったと思う。その気持ちはわかる。上級生の陰に隠れているときはごまかすことができていた。でも、監督を含めた指導者の目はごまかせない。次第にメッキが剥がれていった。すごく感じの悪い人間になっていた。ついに僕も中学生の頃にあれだけ好きだった太田のことが嫌いになっているくらいに。あまりにも腹が立ちすぎて体育の授業中に、どつき合いの喧嘩をしたことがある。僕は太田に蹴りをいれて、太田は僕の顔にパンチを入れた。あれだけ速い球を投げる男だ。物理的にものすごく痛かったけど、それよりも心のほうが痛かった。「なんで太田と喧嘩せなあかんねん」と思った。互いに未熟な人間だったから仕方がない。それでも野球が、平安が、原田監督が未熟な僕たちを変えてくれた。

新チームになると、太田に転機が訪れた。ある日の練習試合で投手陣がまったく機能しない日があった。それはそれはひどい試合だった。それを見かねた監督が外野で試合に出ていた太田に「投げてみるか。」と言った。いきなりのことでみんなビックリしていた。投手の練習を一切していない太田が突然、マウンドに立つ。僕は感動した。「やっとこの日がきた」と思った。そう思ったのには理由がある。シニアの監督が太田を平安に送り出す前に「平安では外野をやりなさい。投手は最後の1年だけ。それでエース。」と言っていたからだ。その言葉には多くの意図があったが、結果的に本当にその通りになった。
実際、太田は久しぶりにマウンドに立ったにも関わらず、完璧な投球を見せた。監督の目がキラキラしていたのをハッキリと覚えている。「いきなり投げた太田でこんなに抑えれてんのに、お前ら毎日何してんねん。」と投手陣がものすごく怒られていた。ここで投手陣に危機感も生まれて、全体の底上げにも繋がったと思う。太田は秋の大会で投げることはなかったけれど、まだ完成には程遠い投手を投げさせなかった監督の判断は夏の甲子園出場に繋がった。
そして投手として練習を始めた太田。この秋の時点では「エースにはなれへんやろな」と思っていたらしい。しかしそんな気持ちとは裏腹に監督は太田に対してすごく期待を寄せていた。冬のある日の練習で僕たち上級生の責任感の無さでものすごく怒られた日があった。練習後、監督は僕たちにありとあらゆる勇気の出る言葉を送ってくれた。その時、監督は「おい、太田。おれはお前のストレートは全国でも絶対に通用すると思ってる。だから、しっかり責任感持ってやろうや。」と太田に声をかけた。太田は「監督が自分以上に自分に対して期待してくれるのがほんまに嬉しかった。頑張れたな。」と当時のことを振り返る。僕らは監督に期待されることが本当に嬉しかった。監督は頑張ったら頑張った分だけ必ず認めてくれる。それが簡単じゃないからこそ嬉しかったし、励みになった。結果がすべてではないけれど、結果が出ない努力は努力じゃない。厳しい現実もここで教わった。でも、正当に努力すれば不思議と必ず報われるのも平安高校だった。「あかんやつは、何しても一生あかん。自分で本気でそれに気付いた人間から変わっていく」とよく言われた。全部誰かに教えられて全部変わるなら人間みんなうまくいってる。他人からもらったヒントに対して、自分で考えて行動するから人は変わっていく。悔しくて泣いたこともある。逃げたくなることなんて何回もあった。厳しい環境に身を置いたからこそわかる苦労や喜びが何個もあった。それでもいつでも苦しい現状を引っくり返せるのは「自分で考えて動く人間」だ。そしてそのヒントを与えるのが教育者だ。僕はそう思う。「やらされてる」と思っていたことも確かにある。でも「それじゃあかん」と気付けたから僕たちは変わることができた。気付いたもん勝ちだ。
そして翌年の春、沖縄遠征で浦和学院と試合をした。この遠征で最も力のある対戦校だった。この試合で先発する投手が現段階でのエースだと思った。そんな試合の先発に選ばれたのは太田だった。試合は3対1で負けたけど、見事な投球内容。監督は試合後、「目処が立ってきたな。」と太田に伝えた。監督の口から出る一言は自信に変わる。外野手だった太田はチームのエースにどんどん近づいていった。それは投球だけじゃなく、人として。
「新チームになったとき副キャプテンになったけど『こんなヘタクソばっかりで試合に勝てるんかい』と思ってた。前々から無責任とか自分のことしか考えてないって言われてたけどほんまにその通り。でも投手になってからチームのことを考えられるようになった。自分が投げる1球、1球で試合が決まると思ったら、無責任に投げられない。そう思ったら練習から意識が変わった。投手になって良かったなと思う。監督に投手やれって言われてなかったら、どうなってたかわからない。」と太田は当時を振り返る。投手をしてから、個人としての立ち振る舞いも変わって、練習中やミーティングの発言も少しずつ増えた。
そして春の大会を迎えた。太田はここでも一切投げてない。甲子園出場をかけた夏のラストチャンスに向けて、平安は春の大会から徹底的に太田を隠し続けていた。そして夏の大会の抽選日を迎えた。「準決勝、決勝で行くぞ。」と監督から言われていた太田の背番号は9。平安に素晴らしいサウスポーがいることを誰も知らなかった。順調に勝ち上がり、アクシデントで準々決勝で少し投げるというハプニングは起きたが、準決勝、決勝で先発。公式戦での登板がこれまで一度も無いにも関わらず、最高の結果を残した。もともと緊張するタイプなのに、臆することなく堂々と投げていた。監督の期待に見事に応えて、チームを甲子園に導いた。「よう頑張ったな、ありがとう」と監督に笑顔で声をかけられる太田の顔は本当に嬉しそうだった。太田に期待している監督と、その期待に応えるべく、過程を積み重ねた太田。今思えば、そのふたりの信頼関係はものすごく強かったように感じる。

そして乗り込んだ夢の甲子園。もう隠す必要はない。
太田の背中には堂々と「1」の背番号が付けられていた。
甲子園では初戦で負けたけど、緊張しいの太田がマウンドで躍動するように楽しく投げている姿に僕は感動した。8回途中まで投げて11奪三振。僕はあの日の太田の投球を一生忘れないと思う。
紛れもなく、僕たちのエースだった。
すごくかっこいいことを言っていた。
「自分たちが甲子園に行きたいと言うよりも、他の高校が甲子園に行くほうが嫌やったし許せなかった。こんなに頑張って負けるのムカつかん?(笑)」
いかにも太田らしかった。でも本当にその通りだった。
「勝ちたい!」というよりも「負けてたまるか!」の気持ちのほうが完全に強かった。そういう組織だった。毎日が喧嘩みたいなものだった。だからピリピリしてたし、その緊張感が日頃からあるから、一発勝負に強いんだと思う。それが平安の伝統だと僕は感じる。僕はこれを「古臭い考え」とはどうしても思えない。現に今も人生の力になっているから。人生も同じようなもので毎日、毎日が勝負みたいなところがある。少しでも前に進みたくて、少しでも力をつけたい。卒業してまでそんなものは背負わなくていいのかもしれない。普通に暮らしていけばそれなりに生きていける。その方が楽だ。でも背負うものがあるから人として強くなれたのも事実。だから1日、1日を大切にして良い過程を積み重ねないといけない。だからいっぱい挑戦できる。何度も苦境を乗り越えてきたから、大人になってもそれができる。そういうことを早い段階で教えてくれたのが平安だった。野球の技術や能力がどれだけ高くても、社会に出たら何の役にも立たない。でも今まで培った「野球がうまくなるために、試合で勝つために注いだ時間と過程」は必ず役に立つし、自分を支えてくれる。そんな代わりの利かない目に見えない財産を僕たちは平安高校で手にした。

太田は原田監督への感謝の気持ちを口にした。
「正直、現役中は監督が怖くて仕方がなかったし、『なんじゃ、このおっさん』と思っていた。でも自分たちが思っている以上に監督は自分たちのことを考えてくれてる。それに気付いたことが何回もあって嬉しかったし、頑張れた。大切にしてくれてるんやなと思った。進学のこともそう。近畿大学に行きたいと伝えたら、知らない間にすぐ決まっていた。出口のこともしっかり考えてくれてる。大学に進学しても東京ドームまで試合を観に来てくれた。その試合で投げた翌日に『昨日は感動しました。ありがとう。これからも平安魂で頑張ってください。』ってメールが送られてきた時もうれしかったな。社会人野球に進むときも進路の相談に乗ってくれたし、今でも『仕事頑張ってるか?』って気にかけてくれる。原田監督にはめちゃくちゃ感謝してるよ。大学、社会人でも野球のことはいっぱい勉強になったけど、平安で学んだことがいちばん人生の基盤になってる。人間的に成長できた。人として絶対に察さないといけない部分ってあるやろ?そういうのが感じ取れるようになったし、今は気遣いとかそんなに必要じゃないかもしれへんけど、気を遣わないよりはマシやと思うし。当たり前のことかもしれないけど、そういうことが出来るようになった。良い思いをさせてもらったから今も目の前の仕事を一生懸命やろうと思えるし、頑張ることで野球の価値がまた高められるよな。」そう言った。
僕も太田とは10年以上の付き合いになるけど、こんなに思っていたことを聞く機会は仲が良いからこそあまり無かった。そもそも太田は思ってることをペラペラと話すタイプでもない。だからこそ嬉しかった。同じように平安に、原田監督に、人生を変えられた仲間がいるんだと再認識した。
そして太田は今、野球ではなく仕事を頑張っている。難しいこともたくさんあるみたいだ。でもどうせ乗り越えられる。それだけはハッキリとわかる。
太田は、かっこいい男だから。



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1994年3月9日生まれ 奈良県出身 平安高→立正大→松屋銀座百貨店→芸人(ワタナベエンターテインメント)→フリーライター