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つづかない組織はどうすれば歌えるのか

(2020/02/10 15:00 追記)
このテキストで取り上げた著書の電子版が出ました。印刷版より20%お値打ちみたいです。

すぐ売れた言語、出世しないおじさん

python(1991-)は僕より年下なのに、世界中から大人気だ。シンプルで使いやすい高水準言語で、標準ライブラリも多く、データ分析と機械学習によく使われる。2020年には日本でも資格試験や教科書に取り上げられた。

『新古今和歌集』が(1201年に発注、1216年に納品され、名実ともに)完成したとき、藤原定家(1162-1241)は54歳だった。父親の藤原俊成(1114-1204)も出世は遅い。稼業の成功と芸術家としての最盛期はえてして重ならない。とはいえ上下関係に厳しい慣習のなかで、就任してからプロダクトマネージャーになるまで何十年もかかるなんて! 院政期の著名な詩人たちは、1970年代・日本の大企業みたいなキャリアプランのなかで生きたのか。

技術標準が欲しくなるとき

『六条藤家歌学書の生成と伝統』(梅田径, 2019, 勉誠出版)(以下、本書といいます)がメインキャラクターのひとりに起用した藤原清輔(1104-1177)も、いまでいえば「若いころは出世に恵まれなかった作家・編集者・文芸批評家」だった。プレイヤーよりマネージャーとしての業績が後世に語られやすい。「紙」というハードウェアで、「筆」というコントローラを使い、「手書き」という開発手法で、「歌学」というサポートツールを整備し、先行する「勅撰集」というデータベースを用いて、「歌集」という情報システムを築く。その公共事業の業務効率化を担った、と言えるか。

「院政期には歌学書・歌論書が多数著作された」という(国文学研究資料館「書物で見る日本古典文学史」より)。通説から察するに、「その国の権威」が主導して「歌壇」を立ち上げ、「品評会」や「議論の場」が定期開催されるうち、「派閥競争」や「出世争い」が生まれ、より多くの技術者志望に「専門用語」や「営業秘密」を教えるために、初心者向けの「教育・研修」が求められた。組織開発と標準化を進めたい時期だったのだろう。

『古今和歌集』の成立を、のちに20シリーズ続く「勅撰和歌集」という文化事業のシードラウンドだと見立てるなら、清輔が主導した『続詞花和歌集』(1165)の制作は、「遅咲きのアーリーステージ」に、運悪くリリースされなかった新企画だ。じっさい摂関期と比べたとき、院政期は「『和歌の師』の制度化」が起きたと本書はいう。そして「それは院政という、卑位の者でも貴顕に芸能によって接近し恩賞を得ることができるようになった政治形態と切り離せない」。

「工夫」の流通経路

清輔はその最初期を生きた。30歳を過ぎてから、彼は歌学書『奥義抄』(初稿は1135-1144、献上は1150)を書き始めた。昇進はなかなか進まなかった(上司でもあった父親との不仲説もある)。文化事業に熱心だった上皇の主催したアンソロジー『久安百首』(1150)の編集チームに加わったのは、47歳のとき。これは2020年・日本の平均年齢とほぼ等しい(出典:国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」)。

1158年に起きた軍事対立による政権交代のあと、清輔はやっと有名になったと諸説は言う。『和歌一字抄』(成立下限1154)『袋草紙』(1157-1159)を世に問い、『続詞花和歌集』(1165)を仕上げたとき、彼は62歳になっていた。この歌集は勅撰集にならなかった。「選ばれたものを認める」権威が失脚したからだ。その後に手がけた『和歌現在書目録』(1168)『和歌初学抄』(1169)は、74歳で死んだ彼にとってのレイターワークだったろう。

うす暗い青年期が終わり、輝かしい老年期を過ごしながら、清輔は何を企み、狙い、試みたのか。『六条藤家歌学書の生成と伝統』は、第1部から第2部にかけて、その仕事風景を探ろうと試みた。書写で伝播した諸本(配信者による複製物)の源流を突き止めるのではなく、諸本(完コピを目指す二次創作)に、ときには独断で付け足されたメタデータ設計の「こだわり」を点検する。不届きなノイズでも、あるまじきエラーでもなく、細かすぎて伝わらない工夫の現れだとみる。

夢と挫折のメタデータ

この分厚い1冊が(残念ながら、いまはまだ)風変わりなのは、「原態」ではなく「動態」に、「本文」ではなく「書式」に、「表現内容」ではなく「情報構造」に、「文章」ではなく「文章術」に、「制作」ではなく「批評」に、「コンテンツ」ではなく「キャラクター」に、「データ分析」ではなく「メタデータ設計」に着目したところにある。

ひと言でメタデータ設計といっても、その用法は幅広い。1.著作の「書誌」でもあれば、2.データセットに直書きされる「付帯情報」でもあり、3.コンテンツの表示形式を定める「構造の指定」でもある。たとえば、字下げや行空けといった書字のレイアウトから、注釈や解題といったコメント、著者を匿名化するためのポリシー、地名や職名のコロケーション、類標・列挙によるタグ付け、目次構成によるカテゴリー分類、検索性の向上まで。

本文のテキスト「じゃないほう」には、マニュアルな通信手段しかなかった時代の、「生産、流通から享受(あるいは保存や保管)に至るまでの、一連の長大なプロセス」(本書より)が組み込まれている。それをひもとけば、複合的な連続事業体が、その大規模なネットワークをいかにして築きあげたか。その足跡が辿れる。

言語操作技術者の夢と挫折が詰まった、不可視の空間。本書は、清輔が書き残した多様なメタデータから、その設計思想のかけらを拾い上げる。本書の語り手が、失われた標準規格への「意識の芽生え」を復元するにつれ、読者の頭には、ひとつの知識体系がじっくりと育っていく。

凍えそうな構造の底で

やがて、奇妙な感覚がやってくる。凍える吹雪のなかで、薄氷を踏むように、海面に点在する氷山から氷山へと飛び移っていたら、じぶんの足元の、ほの昏い水底の奥深くに、数えきれないほどの死が埋まっているのが見えた時のような。ごく大ざっぱに書き出すと、本書はこんな風に、5つの層から成る。深い構造を持つと言っていい。

0.最終読者である「僕」

1.先行する読者たちの理解(現時点で最新の)
 1-1.諸本のメタデータ設計の「読み」
 1-2.先行研究による「読み」
 1-3.編纂、印刷、製本された文献
 1-4.翻刻された活字またはデジタル化された書字
 1-5.諸本または原本の画像

2.複製された諸本
 2-1.書誌
 2-2.構造指定
 2-3.付帯情報
 2-4.本文
 2-5.根底にある価値判断

3.歌論の原本(の、想像上の原態)
 3-1.書誌
 3-2.構造指定
 3-3.付帯情報
 3-4.本文
 3-5.根底にある価値判断

4.論及される歌群
 4-1.書誌
 4-2.構造指定
 4-3.付帯情報
 4-4.本文
 4-5.根底にある価値判断

5.歌群の出所となる歌集
 5-1.書誌
 5-2.構造指定
 5-3.付帯情報
 5-4.本文
 5-5.根底にある価値判断

5つの層はそれぞれが互いを参照し、牽制しあう関係にある。なかでも本書は、「2.複製された諸本」がそれぞれに持つ価値を見出すために、とくに「2-2.構造指定」「2-3.付帯情報」に注目していて、それが最終読者である「僕」に伝わる。最終読者は、より深い層をいちいち読み込まなくてもいい。本書はシンプルで使いやすい高水準言語で書かれているからだ。

最終読者。この呼び方はたぶん耳慣れない。だけど本書もまたそうであるように、2020年を生きる僕たちは、もはや「書き手」と「読み手」の機能と権限をはっきりと分けることがない。それは「その日の事情」や「その場の都合」で変わるロールプレイのひとつであって、幅広いグラデーションの双極を示す符号くらいのものだと割り切っている。

にも関わらず、「僕」という読者が、いま、ここで「終わり」にしたら、もう「その後」には続かない。そして、歌学書の書写人たちも――一次著者か二次著者か、より後次の著者かに依らず――じぶんの著述が、より長くて大きいものの、あるひと時を別の時まで伝える「つなぎ」だと見なしていた気がしてくる。これは奇妙な感覚だ。

「方法」のジオラマ

本書のストーリーが進むにつれて、語り手は論及の単位を大きくし、視点をより高次にあげる。第3部は、4種の「作法」に目配せして書かれた小論が収録される。作者論(さほど大きな功績をあげなかったがゆえに、同時代のトレンドを洞察するのにぴったりな作者の)、作品論(依頼仕事であるがゆえに、多方面への遠慮と政治的な駆け引きのあとが読み取れる歌集の)、キャラクター論(史実だと称する物語に描かれる、実在した登場人物の)、読者論(文化の成立条件を決める制度と経済状況をめぐる)。

選びとられた4の「作法」は、いかにも王道で・定番のそれでありながら、その「題材」が(おそらく)研究コミュニティのなかでさえ王道で・定番のそれからは外れていることで、21世紀が大いに直面し、いまなお経験する問い――無尽蔵に湧いては消える作品未満の作品たちが、この時代にどういった文化史的な意義を持ちうるのか――を、思わず考えさせられる。

想像するに、本書の語り手は、本書自身が属する言表の総体をメタ視点で捉えようとし、抽出できた情報構造の特徴を、本書自身のメタデータ設計に反映させたのだろうか。本書は中盤で、単語と数値だけを用いた改行詩と呼びたくなるほど禁欲的な列挙を行う。終幕では、データセットの書面化とでも呼ぶほかない抽象度の叙述に辿りつく。その一字一句に圧縮された情報量の――というより、その一字一句に盛り込まれないまま、この数百年の間に「消えた」労苦は、だれであれ決して正しく計量できない。

この本は僕に何を伝えたか。ひとつだけ示すなら、いまから900年以上も前に、藤原清輔という作家は、一文を構成する最小単位の分解・選択・配列への注視という、自然言語処理技術者の感覚の萌芽とでも呼ぶべきものを持ち合わせていたのだ。どうやら。とっくに。この気づきは僕を驚かせた。情報技術の世界史は、テキストデータの日本史を抱え込んでいたのだ。

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