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フィクション短歌が描く時代 穂村弘『水中翼船炎上中』

 短歌という器にはフィクションを注ぐこともできる。フィクショナルな短歌で人気を博した歌人のひとりが穂村弘で、本書にいたってとうとう四十年以上の月日を舞台にした歌集をものした。日本の昭和の子どもが育ち、成長し、年をとる。通して読むとそういう本である。けれども本書は小説ではない。歌集だ。だから詩歌だけが切り取ることのできる飛躍がある。一首の中にとっつきやすい飛躍がある例を示そう。

 口内炎大きくなって増えている繰りかえすこれは訓練ではない

 詩歌は共感のためのものではない。驚異のためのものだ。よく語られる話だが、文芸というものはシンパシーとワンダーの配合でその性質が決まる。「この小説は三回泣けます」とか「二分で読めるエモいショートショート」とかがシンパシーを強調した宣伝文句である。共感がまったくないと読書は進まないが、共感は既知の感情や感覚をなぞるものであり、新しい感覚や感情をもたらすものではない。それで各自が好みの共感と驚異の配合を選ぶ。詩歌はワンダーの配合がきわめて高いジャンルである。

 そして「三回泣けます」に代表されるように、現代は共感の時代である。共感こそが善であって、輸入する映画は全米が泣いたやつである。そうした時世にあって、ワンダーはともすると「マニアがいい気になってひとりよがりをやっているもの」「自分たちには関係のないもの」ととらえられてしまう。なんということか。共感を楽しむのは、そりゃあ好きになさったらいいのだが、私の好きな驚異系コンテンツが減るのはいやだ。驚異するときの気持ちよさといったら、あなた、ありゃあ、麻薬ですよ。もっと驚異させろ。ああ気持ちいい。

 もちろんそのようなワンダー中毒の私であっても、共感ゼロの読書はできない。どんなに突拍子もない言語表現でも、好きで読む作品は私の共感を含むものだ。『青い脂』とかだって共感しながら読んだ。詩歌はもちろん「まじ二分で読めて超エモい」と思いながら読んでいる。そして私のエモーションに触れる詩歌は公刊されているものの一割に満たない。詩は、飛ぶものだ。だから読者を選ぶ。たくさんの人を背に乗せる大きな鳥は、飛べない。ーー普通は。

 でも本書は飛べる。大勢を背に乗せて飛ぶ。おそろしいことである。本書は共感の使い方が異様に上手い。本書収録の短歌群の「あるある」「あった、あった」的な表現のうまさといったらない。そしてその「あるある」は一瞬にして腕を翼に変じ、驚異のもとへ読者を運ぶ鳥になる。

東京タワーの展望台で履き替えるためのスリッパもって出発

 時は昭和、子どもを連れた一家が東京タワーにのぼる。可愛い光景である。おうちを出るときにちゃんと三人分のスリッパを持ってきた。だって首都東京のシンボルであるタワーの展望台だ、礼儀正しくお邪魔しましょう。それならば靴を脱がなくてはね。そういう光景である。可愛い。可愛いけれど、まぼろしだ。吸い込まれそうなまぼろし。若い父、若い母、子どもである自分。共有した相手がどんどん死んでいく過去。スリッパを持っていったの? 東京タワーに? そんなはずないでしょう? ところで東京タワーって何? そう尋ねられて狼狽する、老人になったかつての子ども。読者である私は二分どころか五秒でそのような情景を想起する。

 この調子で昭和の終わりと平成がほとんど丸ごと歌集に読み込まれる。繰りかえされるモチーフとずれていく時間軸。その中で異彩を放つのが「家族の旅」と題された章だ。老いはじめた父母との生活が突然異相を見せる。本書には「『水中翼船炎上中』メモ」と題されたリーフレットがついていて、各章の舞台が「現在」「子ども時代」といったぐあいに示されているのだが、この章だけは性質の異なるタイトルがついている。それを読むところまで含めて内容が完成する。「こういう歌集なんだな」と思った瞬間にそれをまたひっくり返すしかけだ。そして時間軸はまた何食わぬ顔で正しい順序をたどり、現在に至る。

 この歌集にはそのようなしかけがあるのだが、もしも小難しく聞こえたらそれは私の筆力の不足のせいです。超エモいやつを最後に引用します。何が言いたいかっていうと、歌集を読む習慣がなくても、ちょっと読んでみてってこと。そしてワンダーをやろうよってこと。一緒にワンダーをやりましょう。とても気持ちいいから。

天使断頭台の如しも夜に浮かぶひとコマだけのガードレールは

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