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共感疲労~ケア側こそ自分を大切に

共感疲労と言う言葉を、この頃よく耳にします
これは誰にでも起こることです
今日はこのお話
よかったらおつきあいください

季節の移り変わりもあるだろうけれど


この頃このワードが良く飛び込んでくきます。
「共感疲労」そのままですね。
共感して疲れちゃう。

何となくふさぎ込む、なんだか余計なことや
マイナスなことを考えているとか
いろいろな現れ方をするようです。

例えば報道やSNSなど
自身の実生活から遠いレベルであっても
辛いニュースなどを見聞きすると
当事者のように辛くなってしまう、
落ち込んでしまう、というような状態です。

最近は、大きな震災や戦争などから
よく知られるようにもなりました。
また、そこまでいかない事件や事故でもそうですし、
閉塞感ばかりの話題などでも同じことが起こるようです。

これは脳のレベル
そんな風に刺激されるそうです。
これを共感疲労というそうです。

ですから気のせいだと片付けず
そんな風に感じることがあるのだなと
まず認めてあげてください。
それによって状態や気持ちとの
付き合い方が変わってきますからね。

そして多分この頃
これが特に耳に入ってくるのは、
ひとつには日本では冬に向かっていて
少しずつ日照時間が少なくなっているからかもしれません。

お日様に照らされないと
セロトニンが出来にくくなります。
このため、どどっと落ち込みやすくなる
というのもあるでしょうし、
気温差もメンタルや身体そのものの状態にも
影響するとお思います。

もっと身近な共感疲労


ただ、実は今日お話したいのはそれより
こちらの共感疲労。
ネガティブな状態の人をケアする側に
起こるものについてです。

例えば仕事として、
あまりコンディションが良くな人達をケアする人であれば
ある程度の訓練もつみ、そこへの意識もあり
相手との間の距離を取ることも学んで身に着けます。
あらかじめ、ある程度の所で
これはちょっと距離をとっておいた方がいいと、
自分で把握することもあります。

けれど
日常的にこのような状態の人をケアする人
或はケアする側に回らざるを得ない人

わからないうちに、この共感疲労に陥っている場合があります。

状態としてはイライラしやすくなったり、
気力がわかなくなったり、
先に挙げた症状とも同じようなことが起きます。

よく見聞きするのは、
親御さんの介護や(或は恋人や配偶者も同じですが)
「辛い」と言っている人、
不自由な要因などを抱えていて、平穏でいられないから
いろんなマイナス要素が表にでてきてしまう人たちの
お世話をしている人たちです。

その人達の気持ちに飲まれて自分も辛くなったり、
または、彼らのネガティブな状態や想いに触れていると、
自分の内側にある似たような思いや経験が呼び起こされて、
それが膨れ上がって平静でいられない、
呼応して疲弊するようなこともあるようです。

私はこれも、共感疲労の中に入ると思っています。

だからこそ距離をとる~それぞれは別の人


人の苦痛をみていれば、こちらも苦痛を感じる
それはとても人間的な反応で、悪い事ではありません。
それがあるからこそ人と通じ合えますし、
解ってくれる人だと思うから
ほっとしたり
一緒にいて安心するとも感じます。

でもだからこそ気を付けたいのは、それが
自分の痛みか相手の痛みかを分けておくこと
だと思います。

そしてまた同時に
「この人を助けてあげられていない」というような
自己嫌悪や自分を攻めるような気持ちからも離れたい
のです。
私は、これも同じく共感疲労だと思っていいと考えます。

例えば、居心地が悪いという人に対して
「この人は心地よくして欲しいと願っているだろうな」とか
「そうしてくれるのではないかと私に期待をしているのだろうな」と
感じて「それに応えてあげられていないな」と思うような場合です。

これもある意味、相手の想いに共感しているようで疲れちゃう、
ともいえます。
でも、実際は、相手が本当にそんなふうに
期待しているかどうかは解らないことではあります。

それなのに、自分が期待に応えられていないと
自分を責めて自分で自分を傷つける、

そうなると場合によっては、
自分でそれにいたたまれなくなり
「こんな気持ちにさせる相手が悪い」と怒って
自分を守ろうとするようなことも起こりがちです。
けれどそうなるとまた
心優しい人であればあるだけ
あとから「なんであんなこと思ってしまったのだろう」と
自己嫌悪に陥ったり、かえってややこしいことになります。

ですから、いろいろしてあげられる
あげられないを思うより前に、
例えば同じケアするとしても、
相手の成長過程を見守ったりしている場合であれば
相手のタイミングまで待つ必要がありますから
ここは自分の心の耐久力を育てることに
気持ちを向けたいと思います。

また、もし相手が「わたしの期待に応えてよ!!」と
要求しているなら、されていることがはっきりしているなら
それはそれで、それも相手の行きすぎた思いです。
ケア側の責任ではありません。

相手はたしかに辛い状態にあるのかもしれませんが、でも
もし「自分は辛いのだから、当たり前に要求していいし権利がある、
だからそれを通す」というのなら
それのは辛さを使った脅迫や横暴です。

それに、実にところ
これを当然と捉えてケアする側が丸呑みするのは
相手にとっては実は心地よくなく、
帰って無力感を助長することになると
私は思います。

そしてもちろん、ケアする側が
自分が期待に応えられないと思い
落ち込んでしまったり自分を責めることもまた
健康な状態とは言えない
と感じます。

これは、ちょっと意地悪な言い方をすれば
「それをしてあげられて当たり前なのに、
もっとしてあげらるはずなのに、なんで?!」などと思うのは、
自分の力量が足りていないのを客観的に認めていないと
いうことでもあります。

ですからケアする側は
「そんな力はないなぁ、してあげたい気持ちはあるのだけど
気持ちと現実は違うのだな」
とちゃんと理解して、
そこで折り合いをつけられるかどうか、
ここが大切だとも思います。

それができれば
ちょっと逆説的ですが、
そして勿論それを期待してそうするわけではありませんが
結果的に、助けてあげられる範囲が広がる可能性が高くなると思います。

そしてまた、ケアされる側にも何かしら通じて、
互いに良いバランスが保たれるように思います。

語った音声での配信はこちらからhttps://stand.fm/episodes/637a1df118a919bb2210bf95

共感と言うワードをはきちがえないで


そしてこれは当たり前すぎることですが、
自分以外の人と自分は違うのです。

共感というワードを取り違えて
同じように感じること、と取り違えることほど
危険なことはないと思います。


そして、誰かに何かしてあげたいなら
まずはその境目をしっかり保てるようになることからだ
とも思います。

思いやることと
一緒になることは違うのですが、
このように距離をとった対応は
それは冷たいことだと思い込んでいる人や
そんなこといいだす人も案外多くいるようです。

でも、一緒にして一体化してしまうことこそ
ちっともお互いをそのままを観いない
ということではないでしょうか。

まず自分を守ることから


そして何より
正当な距離とってそして自分を守ること、
これができずして
他の誰かを守ってあげることは
難しいとも思います。

自分を愛する分しか他の人を愛せない、
と私は思います。

そして勿論、この自分を愛するは
「自分可愛い」とは違いますよ。

我が身可愛さで、ただ体よく周囲から
攻撃されないように自分をかばうようなことではなくて
自分を愛しているから大切にできる
Noも言うし、自分が大切だと思う部分を
自分が尊重するということです。

おそらくそれができる人は
「今、嬉しいな」とか「楽しいな」と
感じることも多いと思うのです。
それは幸せな人だと思います。
そしてやっぱり「幸せだと感じている人」の方が
他の人を幸せにしてあげられると思うのです


だから幸せな人は
他の人の幸せや嬉しいと思っている所にも
濃やかに気づくと思うのです。
そして自身もまた他の人から
沢山嬉しい言葉をかけてもらったりしていますから
同じように自分も周囲の人に
当たり前に嬉しい言葉をかけられます。
こうして幸せの循環が始まるのだとも思います。

結論


ですから、何にせよ
まずは自分を大切にする
自分可愛いじゃなくて、本当に愛してね。
それによって周囲のケアもしてあげられるし
ケアによって、自分が疲弊することもないだろうと思う
と言うお話でした。

最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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