
曾祖母は孫の名をのみ繰返し、曾孫のわれは通行人A
めがねを外して見た景色 第9回
かるがも団地の眼鏡担当 古戸森が送る
短歌とエッセイの連載です。
前の更新から少し間があいてしまいました。
この前読んだ本に
「記憶自体は決してなくならず、記憶を引き出すシステムがダメになるだけだ」
みたいなことが書いてあって、ふむふむ、と思いました。
曾祖母は孫の名をのみ繰返し、曾孫のわれは通行人A
忘れてしまうことはとてつもなく怖いことだと思います。
今、わたしには忘れたくないことが何個もあります。
まだ覚えられているけど、
これをいつ忘れてしまうのか、
これから物忘れが激しくなったら、今とても大事に、宝物のようにしている記憶も
ぜんぶ思い出せなくなっちゃうのかなと思うとすごく悲しい。
言葉や景色、人の容貌、声などは
書き残したり写真をとったり録音したりすれば何とか思い出す手がかりがあるのかもしれないけど、
じゃあ皮膚感覚とか、匂いとかはどうやって覚えていればいいのかな。
そのときの自分の心の感じは?
なるべく最近、忘れたくないことは
どこかにメモするようにしているのですが、
どうしても言葉の枠組みにとらわれてしまって嫌です。
あ、わたしは基本的に、かなり言葉が好きで、
人と言葉でつながりたい。だからこうやって下手くそな文章を定期的に書いています。
でも言葉っていうものは
言葉の外にあるものを全部そぎ落としたり、勝手に包括してしまうものなので、
メモにのこる言葉たちは当然、ほんとうにあったこととは遠く離れているわけです。こういうとき、言葉はちょっぴり不便。
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さっぱり話が変わるのですが、
夏の夜に外を歩いていると、なんだかとても切なく、甘酸っぱい気持ちになります。
遠くに夏祭りの安っぽいお囃子などが聞こえたらなおさら。
この病気(?)を持っている人はたぶんけっこうたくさんいると思うのですが、
わたしも結構重症患者です。
夏の夜なんてものは今までの恋のダイジェスト動画が脳内を駆け巡ったり、
訳もなく涙ぐんでしまったり、
世界の主人公かのように腕を大きく振って歩道の真ん中を歩いたりしちゃうのですが、
はて、この原因は何だろうとこの前考えてみたんです。
なんとなーく記憶をたどって穿り出してみると、
たしか中学1年生のときに
地元の夏祭りからの帰り道がたまたま(か、たまたまに見せかけて)気になっていた先輩と同じになって、
たぶんそれが、わたしの「切ない夏の夜道」デビューだったんだと思います。
その帰り道に何を話したのか一切覚えていないし、
その先輩のことはむしろ最終的にちょっと苦手になってしまったので
(不思議なことに、なんで苦手になったのかは鮮明に覚えているんですよねえ)、
意識的にこのことを思い出すことも無かったのですが、
この経験は今のわたしの情緒に大きな影響を与えている。これは間違いない。
たぶんこういうことってほかにもたくさんあって、
今まであったいろんな出来事、
今まで会ったいろんな人に、知らず知らずのうちにいろんなものをもらって、
それが自分の精神的な血肉になっているのでしょう。
夏の夜に切なく甘酸っぱくなる気持ちも、
何かをきれいと思うきもちも、
この、忘れるのが怖いという気持ちも、
たぶん全部、だれかからもらったものです。
そう、だから、
もしいろいろなことを、「できごと」としては忘れてしまっても、
そこから得た心の動きとかは、きっとわたしの中のどこかの部分で生き続けるんだろうな。
じゃあ本当の意味では、忘れるなんてことは世の中にないんじゃあないかな。
わたしの中には、死ぬまでいろんな人やものが生きています。
さて、
それはさておき、
小学生の時に服を着たままプールに滑り落ちてしまった忌まわしい記憶を早く忘れたいのですが、
どうすればいいですか。
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