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滞留海

 友達の引っ越しを見送ったのはもう十五回目になる。
 先週、とうとうマリがいなくなった。マリの家の何もかもを載せた大きなトラックが走り去った時は、悔しくて、羨ましくて、寂しくて、涙が出そうになった。
 少し前までドアには可愛い表札がかかっていて、家族で植えたという小さなパンジーの植木鉢があった。今では他の団地のドアまわりと変わらないくらい地味になってしまった。小さな頃から二人で遊んだ公園も、錆びたブランコが揺れているだけである。
 この街はもう死んでいる。私もこの土地と共に朽ち果てる気がしている。

「ただいまぁ」

 廊下の床を軋ませながらガラス戸を開けると、じいちゃんがいびきをかいて眠っていた。
 今年の冬は特に寒い。私がでかけている間に炬燵を出したらしく、気持ちよさそうに体をうずめている。

「じいちゃん、起きて。もう夕方。海かきしょうや」

 声をかけても全く起きる様子がない。仕方がないので、玄関にある大きなシャベルを手に家の裏手へ向かった。
 曇天の下、かじかむ手で柄を握りしめ、私はうぞうぞと蠢く『海』をすくいあげた。

 十二年前、突然全ての海が地上に迫り始めた。いわゆるスライムのように蠢き始めたのだ。なんの前触れもなく、一晩で海水がまるごと変わってしまったあの日、世界中が混乱に陥った。
 この海は地球の怒りだとか、宇宙人の仕業だとか、いやこの海は生きているのだとか、色んな話が出ているが、今でも全く解き明かされていない。魚を自由に食べていた時がたまに懐かしくなる。
 今までなんとか人類は生き残っているが、普通に過ごしている中でも日本は飲み込まれている。いくつかなくなった島もある。私の家も、昔は海から何キロも離れていたのだ。

 迫ってくる海をすくうこれを、じいちゃんは海かきと呼んでいる。毎日続ければ、家に住み続けられると誇らしげに笑って言っていたのが忘れられない。

「何が住み続けられる、だよ。一人で勝手に死ねよ……」
 

【続く】

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