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若者のすべて

あれは、たぶん、二年くらい前のいつかの夕方。

いつもと変わらない、保育園からの帰り道。後部座席にはチャイルドシートに座った娘がいて、その日の出来事を楽しげに話していた。お友達と遊んだことだとか、先生に読んでもらった絵本のことだとか。

私は娘の話に相槌をうちながら、ハンドルを握っている。一通り話し終えたのか、娘が口をつぐむ。

車内に流れているのは、私がつくったプレイリスト。一つの歌が終わり、瞬間の沈黙の後、新しい歌が流れる。私は、耳をそばだててそれを聞く。ちらりと確認したルームミラーには、横を向き、窓の外を眺める娘が映っている。静かに、黙ったままで。

歌は流れ続ける。いちずに丁寧に刻まれるドラムの音と、やわらかくてなめらかで、だけどどこかいびつな甘い声が、窓の外の夕焼け空に溶けていくような気がする。

「ねえ、ママ」
「なあにー?」

ふいに娘が私に呼びかける。車は交差点にさしかかったところで、私はちらりとも後ろを見ることができない。声だけで返事をする。

「このうた、なんていうの?」

娘の質問に、私は少しだけおどろく。だって、毎日、こうして送り迎えの車の中で音楽を流しているけれど、タイトルを聞かれたことなんて初めてだったから。でも、驚いている様子なんて見せないようにして、私はただ答える。その歌のタイトルを。

「ふうん」と、娘が言う。
「だけど、歌にはぜんぜん出てこないんだね」と、続ける。

そうだね。テレビで聞く歌や保育園でうたう歌は、みんな、だいたい、歌の中にタイトルが出てくるものね。「小さなせかい」も「むすんでひらいて」も「てのひらを太陽に」も。

だけど、この歌には出てこないんだ。そこがいいんだよ。そこもいいんだよ。

そう言ってしまおうかと思ったけれど、私は口をつぐんだ。ルームミラーに映る娘は、再び横を向いて窓の外を眺めていて、その横顔は「そんなことはちゃんとわかっているよ」と私に語りかけている気がしたから。


歌がすっかりと終わるまで、私たちはずっと黙ったままでいた。

あの時の、やわらかくてなめらかで、だけどどこかいびつな沈黙を、私はきっとずっと忘れないだろうと思う。



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