狂いだしたのはいつからか

私には家族という定義があやふやだ。
この日本に住んでいる限りは家族の定義はだいたい同じだ。
父親と母親がいて、兄弟がいて、おじいちゃんやおばあちゃん親戚いとこ等など。繋がりがある。
学校の子と話していたり、接したりしているとよく思い知らされる。
別の世界の人間なのだと。
私は最初からうまくいってなかったんだと大きくなってようやく気づいた。

これからする話は記憶を辿って、客観的に綴っていくだけだから。拙いものになるが、自分のために吐き出す文章であるから仕方ない。
他の誰のためでもない、私のためにここに書記す。
物語として読むのはオススメしない。
昔の辛い記憶なぜ記録するか、なぜ追体験しようとしているのか。
たぶん、忘れたくても忘れられないから、ここに託そうとしてる。
それで消化できるものだとは思っていないけど。
せめてもの救いをここに託す。

幼い頃のことだから記憶が曖昧だが、既に物心着いていた時には父親はいなかった。
母親は外国人で、出稼ぎで日本に住んでいた。
父親ではない男がいるという状態であった。
私はお母さんはいるが、お父さんがいないのでお父さんというものがよくわからなかった。

後になって、その時の私たちの家族にとって父親像というものがどんどん歪められていったが、それはまた別の機会があればお話しよう。

兄が2人いたが、兄達も別の父親だった。
そして血は完全に外国人だった。
私だけが日本の血が流れていたのだ。
だから、時が経つにつれ家族の中でも人種的な差別が起き始めた。
私だけが日本人の父親だったので、よく私越しで養育費という名目で金をせびられた。

母親はよく色んな男と付き合っていたが、恐らくその男たちと別れる度にあたしに特にお金についてせびってきたのだと思う。
だからかなりの頻度でいきなり私に怒り出しては、
「父親からお金をもらいにいけ!」
と暴力を振るいながら、私にそう命令した。
そして、父親に泣きながら電話して失敗をすると、その後に
なんで貰えないんだよ。ふざけるな。
そう言って更に暴力を振るい続けた。
泣いて謝っても止めてくれないので、耐えるしかなかった。
そして、母親は気が済むと部屋から出ていく。
私は1人でいつか殺してやると思いながらぬいぐるみを抱きしめながら泣きじゃくった。
そして時間が経つと、母親はまた私の部屋に入ってきて私を抱きしめながらごめんねと謝って私の頭を撫でるのだ。
そんな茶番を18年繰り返してきた。

兄2人の父親は外国人だが、脱税だのなんだので、国外逃亡をしていて行方がわからないらしい。
だから、宛にならないので唯一日本人の父親の私に特にお金のことで執着して手を挙げてきたのだろう。

後に弟が1人できるのだが、その弟もまた外国人の父親だった。
私の家族はルーツからしてバラバラであれば、まともな教育なんてのもなかった。
だから私は今はマシになっていた方だが、幼い頃はとてつもないバカだった。
学校に行っても空想に浸って話を聞いていない。
(診断はしていないが、恐らく成人の今を見ても思う限り自分はADHDなのではないかと思う。)
まともな大人が周りに1人でもいれば少しはマシだったのかなと思うが、引越しばかりしていたのでそんな信用のできる大人もいなかった。
当時、私にとって信用して頼れる大人は、考えてみれば、一人もいなかったな。
助けて欲しかったけど、誰に助けを求めていいのかってわからないよね。
それに、自分に手を上げる人が唯一1番そばにいる大人だった訳だから、そんな助けを求めるなんて発想は浮かんでこないわけだ。
心が壊れるのに時間はかからなかった。

何度も心を壊されたんだろうな。
どれだけ頑張ろうとしても今の私は無気力だ。
一応言っておくが、もう縁は切っていて約7年は会っていない。
たまに連絡はくるが、最低限度の返信だけだ。
その返信だけでも、よくやるものだと自分自信に呆れてしまうが仕方ない。呪われているから。
物理的距離を置いても心だけはいつも離れずあの人の影がいる。

狂いだしたのは私が生まれる前から。
壊れるの壊されるのも当たり前。
だから私は許さない気持ちを抱えながら生きていく。
今回はここで話をやめようか。

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