見出し画像

ことばのおちばとホッチャレ

ふと、ある表現が私の頭に浮かんだ。
まず最初に浮かび上がってきたのは
"ことばのおちば"という音の響き。
韻を踏んでいて、なんだかいいな、と思ったので、文字にしてみた。
"言葉の落ち葉"と"言葉の落葉"
後者の方が、漢字二文字同士で収まりがいい気もするが、前者の方が、なんだかやわらかい感じがして好きだ。

この表現を既に誰かが使っているのかな、と思い、Google検索してみたら、どうやら開高健氏による「言葉の落葉」という全4巻のエッセイがあるようだ。ちぇっ、私が初めて思いついた表現ではないのか、と少し悔しい気持ちになった。
と同時に、開高健氏のそのエッセイを読んでみたくてたまらなくなった。どんな内容なのだろうか。私がイメージした"ことばのおちば"と同じようなことを彼も考えていたのだろうか。それとも、表現は同じでも、考えていることは全く異なるのだろうか。
こういうときに、海外にいることの不便さを感じてしまう。近所の本屋さんには日本語の本は置かれていないし、図書館にももちろんない。あったとしてもきっと、村上春樹の小説のような、超メジャーな本くらいだろう。読んでみたい本をすぐに手に入れられない不自由さ。ぐぬぬ。

開高健。名前は知っているが、その著書を自ら読んだことはない。しかし、彼の文章を一度だけ読んだことがあった。高校1年生の現代国語の授業で最初に習った随筆だ。タイトルは忘れてしまったけれど、"ホッチャレ"と呼ばれる北海道の鮭についての話だった。ふるさとの川に遡上し、産卵を終えて死んだ大量のホッチャレの死骸が、他の魚に食べられたり、分解されてプランクトンのエサになったりして、周りの他の生物の栄養となり、その川の水がまた豊かな森や大地を育てる、といった内容だったと記憶している。そこの部分はよく覚えているが、その随筆の主題が何であったかは、覚えていない。
なぜその内容を覚えているのかというと、"ホッチャレ"という響きが、高校生の私にとってとてもキャッチーだったのだ。そして、それだけでなく、むしろそれ以上に、そのときの現国の先生が、これまたとてもキャッチーな風貌の男の先生だったのだ(どんな風貌かはご想像にお任せする)。なんとも失礼な話なのだけれど、当時の私には、その先生がもうホッチャレにしか見えなくなってしまったのだ。"ホッチャレ=現国の先生"という、聴覚と視覚の両方でのキャッチーな記憶があるから、20年以上経った今でも、それを覚えているのだろう。そしてその随筆の作者であった開高健という名前も、朧気ながら記憶に残ったのだろう。

そして20年以上経った今、今度は現国の教科書ではなく、自分の頭に浮かんだ表現から、思いがけず開高健氏と再会したのである。こういうことを"邂逅"と言うんだな、と思っていたら、また、ん?と何かが引っかかった。そうなのだ、開高健氏は「さまざまな邂逅」というエッセイも書いているのだ。これは…運命?また私の関係妄想の始まりである。

ということで、日本に帰国したら、本屋さんで「言葉の落葉」と「さまざまな邂逅」を探してみようと思う。
いつ帰国できるんか知らんけど。