見出し画像

ただいま、おかえり、いってきます、いってらっしゃい

年末年始の約2週間、日本に一時帰国していた。こどもたちの現地校が終わった翌朝ロンドンを発ち、ヘルシンキでの乗り継ぎを経て、羽田に到着した。飛行機を降りて空港内を歩いている間、視界に飛び込んでくる文字、聞くともなしに聞こえてくる言葉が全て日本語だった。それら全てを脳内翻訳することなく瞬時に理解できた。そんな当たり前のことに、あぁ、日本に帰ってきたんだなぁ、といたく感動した。

羽田から伊丹へ最後の乗り継ぎをして、私の地元大阪(伊丹空港は実は兵庫県だけど)に戻った。伊丹空港は、イギリス出国前にも何度も利用していた空港だったのだけれども、施設のリニューアルを経て大きく様変わりしていた。懐かしさよりも、ここはどこ?という所在ないような感覚で、そうか、これがいわゆる"浦島太郎になった気分"てやつなんだとわかった。そんな気分で到着ゲートを出ると、両親と弟が待っていてくれた。「ただいま」「おかえり」と挨拶を交わした。羽田で感じた“日本に帰ってきたんだなぁ”という気持ちとは違った感覚を抱いた。羽田では、久しぶりに日本語に囲まれた“物理的感覚”で、伊丹では、家族に迎え入れられたという“心理的感覚”での“日本に帰ってきた感”だったのだと思う。
そのまま実家に帰るのではなく、私たちは伊丹から奈良へ向かう予定にしていた。両親は、奈良に持って行く必要のない荷物を預かるためにわざわざ伊丹空港まで来てくれていたのだった。両親に荷物を託し、私たちは奈良へと向かうリムジンバスに乗り込んだ。乗り込む時、「いってきます」「いってらっしゃい」と言葉を交わした。

このあと2週間、フルスロットルで奈良、大阪、新潟、また大阪と動き回り、たくさんの人や場所に再会し、また別れた。どこへ行っても誰に会っても“帰ってきた”と感じたし、その間に、何度「ただいま」「おかえり」「いってきます」「いってらっしゃい」と交わし合っただろうか。その言葉が持つ響き、意味、その言葉を口にする人の気持ちを、こんなにも噛み締めたことはなかった。なんて美しく温かい言葉なんだろう。そう言い合える人がいるって、帰る場所があるって、なんて幸せなことなんだろう。そんなことを感じながらロンドンに戻ってきた。

ヒースロー空港に到着すると、今度は視界に飛び込んでくる文字、聞くともなしに聞こえてくる言葉が全て英語だった。当たり前である。ここはイギリスなのだから。私の英語力では、日本語のようにそれら全てを瞬時に理解することはできないけれど、初めてこの地に降り立ったときほどの居心地の悪さは感じなかった。羽田に到着したときとは異なる気持ちで、あぁ、ロンドン(イギリス)に戻ってきたんだなぁ、と感じた。入国審査の際、「旅行者ですか?」と聞かれ「いえ、住人です。ロンドンに住んでいます」と応対している夫の後ろ姿を、不思議な気持ちで眺めていた。
荷物をピックアップした後タクシーに乗り、自宅のあるアクトンへ向かった。自宅に近づくにつれ、どんどん見慣れた景色になってゆく。いつもの公園、いつもの駅、いつもの店をタクシーの窓から眺めながら、いつもの道を通る。そうなのだ。これが今の私の日常の風景なのだ。自宅に到着し、玄関の鍵を開け、誰もいない家に「ただいま」と大きな声で言いながら入った。あぁ、自分の家に帰ってきたんだなぁ、としみじみ感じ、自分自身と家族に向かって「おかえり」とまた大きな声で言った。

そして今日、私がボランティアをしている映画館を久しぶりに訪れた。しばらくボランティアに入る予定はないので、とりあえず新年の挨拶だけはしておこうと思ったのだ。映画館の扉を開け、チケット売り場兼カフェに顔を出すと、いつものマネージャー2人が「Happy New Year, Shoko! Welcome back! How's your holidays in Japan?」と声をかけてくれ「Happy New Year!  Yes, I'm back! I had fantastic holidays!」と私は応えた。そしてささやかなお土産を渡しながら、お互いの年末年始 のことを話した。15分ほど話をしたあと、「I'm leaving, see you soon!」「See you soon!」と交わし合って別れた。英語には「いってきます」「いってらっしゃい」にあたる言葉はないと言われるけれど、「See you soon!」と交わし合うことは、ある意味でそれに近いのではないだろうかと、その時初めて感じた。ロンドンでも、「ただいま」「おかえり」と言い合える人がいることがたまらなく嬉しくて、感慨深くて、帰り道はうるうるしながら歩いていた。
遠回りして、よく散歩する公園を通って帰った。広い公園には様々な人種の人がいて、ランニングする人、犬の散歩をする人、ベビーカーを押している人、ベンチで新聞を読んでいる人、大声でスマホに話しかけている人、みんな思い思いの時間を過ごしている。英語だけでなく、いろんな言語が聞こえてくる(もちろんそれを理解することはできないが)。“多様性”という言葉を日本で聞いてもいまいちピンとこないけれど、この街ではその言葉はストンと腑に落ちる。緑色の公園に、見た目も中身も言葉も多種多様カラフルな人たちが集っている。それがロンドンの日常風景なのだ。今の私をすんなりと受け入れてくれる風景なのだ。

“日本に帰る”、“ロンドンに戻る”、とあえて書いたけれど、自宅に着いたときの安堵感と、映画館のマネージャーとのやりとりを通して、今、私は“ロンドンに帰ってきた”と強く感じている。
その“帰る”と“戻る”の2つの言葉には、意味の違いがあるようだ。

「帰る」は、帰属・本拠とする場所へ移動することをいいます。
「戻る」は、元いた場所へ一時的に移動することをいいます。

「スッキリ言葉のギモンを解決するサイト」
https://gimon-sukkiri.jp/kaeru-modoru/

私は日本人で、帰属·本拠とする場所はもちろん生まれ育った日本·大阪だ。あるいは、結婚してから約10年住んで、こどもを生み育てた奈良だ。今は英国ロンドンに住んでいるけれど、あくまで一時的な居住地であり、ここは本来的な意味での帰属·本拠とする場所ではない。だから、“日本に帰る”、“ロンドンに戻る”と書いた。けれど、それはあくまで“物理的”あるいは、言葉の表面的な意味の話であって、今の私の“心理的”、内面的な意味では、帰属·本拠とする場所としてロンドンを捉えている。40年近い私の人生の中で、たかだか2年住んだだけで“本拠とする場所”なんていうのはおこがましいかもしれない。けれど、そう感じることは紛れもない事実なのだ。言葉の意味を尊重して使うことは大切だとは思う。けれど、自分の気持ちを尊重して言葉を用いることも、あって良いと思う。
今、私が帰る場所として、ここが私の居場所として、私の心が感じるのは、ロンドンのアクトンなのだ。そう思えるのは、そこに「ただいま」「おかえり」「いってきます」「いってらっしゃい」と言い合える人がいるからなのだろう。受け入れてくれる場所があるからなのだろう。そこに住んだ年月の長さや、生まれ育った場所かどうか、家族がいるかどうかは、関係ないのだと思う。

今回の一時帰国で、改めて気付かされたことは山ほどあるけれど、私が何よりも強く感じたことは、
「ただいま」そこに待ってくれている人(場所)がいる(ある)こと
「おかえり」そこに居てもいいと受け入れられること
「いってきます」そこにまた帰るべき場所があること
「いってらっしゃい」そこにまた帰ってきていいと認められること
この4つの言葉の温かさ、それを交わし合える人がいることの有り難さだった。そして、ここが自分の居場所なんだと、自分はここにいてもいいのだと思える場所があることの有り難さだった。そう、この4つの言葉は、何より自己肯定感を高める魔法の言葉なのだと気付いた。だから、これから先、どんなに家族とケンカをしても、「ただいま」「おかえり」「いってきます」「いってらっしゃい」だけは、必ず伝えようと心に誓った。
最後に、今回の一時帰国にあたり、日本で「おかえり」と受け入れ、「いってらっしゃい」と送り出してくれたみんなに、ロンドンで「いってらっしゃい」と送り出し、「おかえり」と受け入れてくれたみんなに、「ありがとう」を伝えたい。みんなにまた笑顔で「いってきます」「ただいま」と言う日まで、私はロンドンで元気に過ごします。みんなも元気でいてね。