フーコーにおける「統治」概念

■「統治」とは何か

フーコーは「統治(governance)」の問題(「君主による国家の統治から個人の魂とふるまいの統治、また子どもの統治に至るまで、いかに統治すべきか、いかに統治されるべきかの問い」(重田園江『統治の抗争史』勁草書房、p.20)は、16世紀に突然、噴出したと言う。フーコーはその噴出の理由を二つ挙げる。「一つは封建制の解体と領域国家あるいは主権国家の形成であり、もう一つは宗教改革である」(同上、p.22)
では、そもそも「統治」あるいは「統治する(govern)」という言葉は何を意味するのか。その解明の前提として、フーコーは「人の多さ(multiplicity)」に注目する

雑多な民衆がたくさん集まっている状態が彼の関心の在処であった。多くの人が集まる場所は危険で無秩序の温床であるが、その人たちをうまく配置し、仕事をさせ、収容し、管理することによって、プラスの結果をもたらすことができる。それこそが統治者の役割である。もっと遡れば土地ではなく人を支配するキリスト教の司牧(pastoral)にも、あるいは文字通りの羊飼いにも共通する仕事であった。群れを導き正しく配置するという点において、古代の司牧から近代の君主から行政官まで、その役割は同じである」(同上、p.10、強調引用者)

フーコーは「統治する」ことは、「君臨する」「命令する」「法を作る」行為とは異なるという。もともとは多様な意味を持っていた(★)「統治する」という言葉(語)が、ヨーロッパに導入されたのはキリスト教を通じてである。「統治」とは「一匹の羊と群れの全体に同時に配慮する「全体的かつ個別的」、あるいは「司牧的」な権力様式である」(同上、p.22)。「統治」という言葉(語)が多様な意味を失い政治的意味に独占されていくのが、16世紀以降、近代国家の成立と重なる時期である。

★「道をたどる」「養う(病気の妻を統治する)」「食べ物を供給する(統治するための麦)」「糧を引き出す(毛織物で統治される地域)」「人を導く、魂を統治する」「行いや素行(統治が悪い娘)」「医者が食餌療法を施す」「指導する」「会話する」など

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