見出し画像

「表現する」という恐怖

あけましておめでとうございます。
今年もnoteを覗いていただきありがとうございます。


お正月、実家に帰って昔の荷物の整理をしていました(母が)。
ふと見つけた郵便物は、仲良くしていただいていた門徒さんからのお手紙でした。
中には私が書いた「イルカのてがみ」という本と門徒さんからのお返事。
全てひらがなで書かれた優しい文章。
とてもたくさんお手紙のやりとりをしていたことを思い出し、じんわりあたたかい気持ちになった。

わたしの描いた本はいつ描いたものか思い出せなくてぺらぺらとめくってみても全く分からなかった。(登場してくるタコが上手すぎてびっくりした。)
その本はなぜか途中で終わっていた。
しかも起承転結の起のあたりで終わっていて、門徒さんからのお手紙には続きが楽しみと綴られていた。

ーいつから表現することをやめてしまったんだろう

小さいころに描いた絵や夏休みの自由工作がたくさん残っていた。
絵を描くことも、歌うことも、作ることも大好きだった。


「表現する」って言葉が出たとたん嫌そうだよね。
最近そんなことを言われた。そうかもしれない。
今や「自分が何かを表現する」ということに嫌悪感しか抱かない。
多数派の意見から外れることを恐れるようになって、想いを形にすることをやめてしまっていたら、嫌悪感だけが残ってしまった。人に合わせることを覚えたのと引き換えに、好きな自分がかすんでしまったような気がする。


人はどうして表現したいと思うんだろう。
表現する原動力はたくさんある。
突き動かされるなにかによって表現が出てくるってこともあるけど
わたしは自分を肯定するために表現するんだと思っている
「イルカのてがみ」からは何かを伝えたいよりも好きが溢れていた

自分を好きな自分でいる

そのための表現は見つかっていないけど
2020年はもっと好きが溢れる年でありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?