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マッチングアプリで恋人を作るのは恥なのか?

約1年前に別れた元カノは、マッチングアプリで知り合った年下の子だった。
お互いそんなに長く利用していたわけじゃない。なんとなくタイミングが合って、雰囲気が合って、3回目のデートで付き合うことになった。

結婚の話が出たことがある。
その時、「知り合った場所どうしよっかね」なんて話をしていた。親に話しにくい、結婚式の時なんて紹介しよう、と。

これだけ世間的に広まったマッチングアプリでも、まだ「使っているのは恥ずかしい」という認識は抜けていない。僕だって、外出先でアプリを開く時は人目を憚っていた。

1、出会いの多様化、ネットの普及

地域のネットワークやお見合い習慣が廃れた現代。
母校や職場での恋活が不調で、合コンに行くほどのバイタリティーもない恋愛弱者が、活動の場をネットに移すのはごく自然な流れだと思う。

実際、海外ではネットでの出会いがリアルのそれを抜いた、という話を耳にしたことがある。
趣味や人柄を踏まえてマッチングするネットの方が幸せになる確率が高い、とも。

ではなぜ恋愛アプリの存在が未だに恥ずかしいモノとされているのか。
それは一昔前に流行った「出会い系サイト」と現代の恋愛アプリの親和性が高いからだ、というのが僕の持論である。

出会い系といえば、いわゆるヤリモクの人が利用していたイメージのあるサイトだ。ネットでの出会いとなれば同一視されてしまうのも肯ける。
実際アプリ利用者にもそういう目的の人は一定数存在しているはずだ。

2、マッチングアプリの攻略法

そんなタイトルで検索すれば、無数のサイトがヒットする時代になってしまった。

Twitterやnoteのフォロワー集めの方法が情報商材という名のビジネスになっているように、マッチングアプリのいいね集めもまた、金になる情報として世間に認知されるようになった。

独自開発したツールを使用して無作為に「あしあと」を残し、ブランディングイメージとなる「いいね」を集める戦略は、Twitterのフォロワー数を増やす戦略と大差ない。

そこにあるのは単なる数字でしかないのに。

マーケティングの名の下に社会心理学をベースにした「言葉の力」を利用して広告を打つのも、写真を加工していいねを集めて、メッセージの文面を操作して女性を心理誘導するのも、元を辿れば同じ一つの願望に行き着く。

自己顕示欲だ。

その中身は単純明快。
お金が欲しい。他者に評価されたい。人より抜きんでたい。

ネットが発達した今の社会は、自己顕示欲を肥大化させた人間を量産してはいないだろうか。
少なくとも僕は、この社会構造に絡めとられている自覚を持っている。そこから抜け出せない自分を苦々しく思っている。

noteを始めて記事を書く面白さを思い出して、本当の目的は文章を書き終わったその時点で終わっているはずなのに、「スキ」がいくつ付いたかを気にしているもう一人の自分がここにいる。

ハートマークの数が増えることを気にせず継続できる人は、きっとマッチングサイトを利用しても女性のいいね数に惑わされることはないのだろう。

僕もそうなりたいと、ずっと思っているのに。

3、恋愛くらい好きにさせてよ

学生時代はスクールカースト制度の中で周囲から浮かないように気を遣い、社会人になってからは組織の中で飛び出た杭にならにように立ち回り、ネットでは痛い奴にならないように皆と同じコンテンツに触れて同じようにいいねを押す。

そんな社会にいささか疲れてしまった。

たまに友人と登山をすると、その一切から解放されるのに気がつく。
空気がおいしくなる。自然の中で「いま、ここ」だけに集中するのは、こんなにも気持ちの良いことだったのか、と。

マッチングアプリが悪いと言っているわけじゃない。
使う側がどういう利用の仕方をするか。どう考えているか。大事なのはそこだと思う。

結局のところ、いいね の数と加工した写真なんかで人の価値は測れない。


<空澄 遊>


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