見出し画像

一人でいることが楽な日

飲み会は少人数と大人数どっちがいいか、猫派か犬派か、集団スポーツをするかしないか。どんな心理テストをやっても僕は内向的な性格と判定される。

しゃべるのは得意じゃないし、好きでもない。人見知りだと言うと驚かれる程度に社交性はあるが、社交的な人間だと自分で思ったことはない。
一人でいることは苦痛ではないし、むしろ楽だと思ってしまう。

1、すべての悩みは対人関係の悩み

アドラー心理学にあるように、全ての悩みは人間関係に集約される。そう言われれば確かにそうかもしれないと納得してしまう。
飲み会の時上手く話せないのも、気の利いたジョークで後輩を笑わせられないのも、デートで相手と楽しく会話できないのも、全て対人関係の悩みだ。

対人関係。会話すること。コミュニケーション。ユーモアセンス、面白い人。言語によるコミュニケーション手段を持っているのは人間だけだ。会話についてあれこれ悩むのも人間だけだ。本屋に行けば会話術の本が所狭しと並んでいる。

話すこと、声を発することに疲れを感じるようになったのはいつからだろう。
全ての悩みが対人関係であるのと同様に、全ての幸福もまた対人関係によってもたらされると心理学者は説く。それはそうだ。宇宙にたった一人で取り残されたら孤独で心を病んでしまう。人には自分以外の他者が必要だ。

対人関係、コミュニケーションに会話が必要とされるようになったのはいつからなのだろう。そこに技術があるかないかでコミュ力を測られるようになったのはいつからなのだろう。

会話力で人を格付けする世界に、いささか疲れてしまった。

僕は生来、会話することを好む性質ではない。それでも考えてしまうことがある。
いつも思っていたんだ。純粋に話が好きな人が羨ましい。自分の好きなことを感情を込めて語れる人が眩しく見える。
でも知っているんだ。自分がそうはなれないことを。だから高望みはしない。言語だけがコミュニケーションの手段でないこともまた、知っているから。

2、もし生まれ変われるなら

「もし生まれ変われるなら木になりたい」。そう言った少女がいた。「わたしの性質に似ている気がするから」と。

物語の中の少女だ。現実にはいない架空の人物。それでもこの言葉がずっと心の中に残っている。
木に性質が似ている、と言った彼女に僕はシンパシーを感じていたのだと思う。

木は話さない。不満を言わない。幸福を感じているかどうかなんて分からない。
ただ、生きている。嵐が来ようが日照りが続こうが、大地にしっかりと根を下ろして堂々と空に向かって枝を伸ばす。そして、他の生き物を傷つけることなく、ただ静かに佇んでいる。

落葉は土に栄養を与え、樹液で昆虫の空腹を満たし、小動物に住処を提供する。言葉を発することはなくても、木は他の生き物と共生している。捉え方によっては人間よりもよっぽどコミュニケーション能力が優れていると言えるんじゃないか。

もし生まれ変われるなら、僕は木になりたい。
人が足を踏み入れることのない森の奥深く、動植物がありのままに生きられる場所に静かに佇む、大樹になりたい。

実家の親について意見の相違から言い争う両親を見て、ふと、そんなことを思った。


<空澄 遊>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?