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関数としての言葉(岡崎乾二郎『先行するF』)

20200818

最近娘のういが「あなた」と言うようになった。昨日か一昨日くらいから。

日記みかえすと、「わたし」を使い始めたのは、2ヶ月前、4歳になってすぐくらい。

親バカおおいにあるけど、娘の言語はずいぶん達者だ。

「どこでおぼえたの?」とききかえしてしまうような言葉の組み合わせを度々つかう。

言語、道具としての言葉の力は、モノゴトをきりわけることに、おおきな比重があると思う。

きりわけるっていうの、ザックリ言ってしまえば、ちがいに敏感ってこと。
視覚的なイメージ、印象の塊を捉える。ゲシュタルト。

ういはとびきりに敏感で人見知り。違いへの敏感さは備えちゃってる気がする。

違いを捉えるのは、モノゴトを認識することにつながる。

それは「世界ってこういうもの」っていう印象を構築していく作業。

その作業が日々くりひろげられていくのを、隣でわずかでも、追体験できることを幸せに感じる。

言語、道具としての言葉は、きりわけること・認識することに留まらない、次があると僕は思っています。というか僕が思わなくても数多くの偉人がそうであったと思うのだけど。

関数、ファンクションとしての言葉。
たとえば、主語。「わたしは」。「あなたは」。

「〇〇は」の〇〇がいくらでも入れ替え可能なモノとして認識できるかどうか。

言葉の入れ替え可能性、その入力と出力について思いめぐらせることが、想像力なんだと思う。

想像力を駆使して、違いや認識を揺り動かしつづけること。
揺り動かしながら、違いや認識をつくりあげること。

(このあたりのファンクションとしての言葉の力、すなわち文学については、岡崎乾二郎「先行するF」(『抽象の力』所収)が示唆深く刺激的だった。)

これから娘が、世界をどう壊し、世界をどうつくっていくのか。

それを間近でみまもる育児とは、なんとも贅沢な娯楽だなと思う(日々それどころではなくイライラすること多々だけど)。

そしてそのファンクション、交換可能性として、自分自身と、生きとし生けるものの、破壊と創造にも、幸あらんことを。

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