限りなく我慢の混じっていない幸
20201012
このところ、瞑想のスキルを、友人3人ほどに伝えさせてもらってる。
週に1回、ディスプレイごしに30分ほどセッションして、日々の実践を行ってもらってる。
瞑想はじめてのそれぞれが、こちらが驚かされるリアクションをくれる。ありがたいかぎり。
そういう実感を味わいながら、近くを大事にする感覚を忘れそうになってることに気づく。
今の時代だと、SNSの数字、フォロワー数がより多いことが成功らしきとしてある。
そんなのは意識しなくても大丈夫、と頭では思っていても、体は引っ張られてたなっていう実感がふっとわいた。
影響力が大きいことも小さいことも、今の僕にとっては、たいして重要ではない。
影響をおよぼせる範囲が広かろうが狭かろうが、限りなく我慢が混じっていない幸をおすそわけする。それがまずスタート地点。
そこから、量がついてくればそれはそれでありがたいし、少ないならないでOK。
どういうバトンを、我が身が占める場所を起点に、渡していくか。
いいねやフォロワーの数では、バトンの受け渡しの具合はわからない。
限りなく我慢が混じっていない幸の実践。そこをぶらさないようにする。
その実践の姿が、まず、さらされるのは、妻であり娘にたいしてだと思う。
妻と娘は、僕との接触頻度が高いがゆえに、勝手に影響をあたえてしまう。
2人にどれだけ、僕が意識的なり無意識的に意図することが、連鎖してしまっているか。
遠くに意識をむける段階もいずれくるのかもしれない。
ただまずは、妻と娘からはじまり、近しいところへバトンを確実に渡していく(渡した上で捨てられるのは構わない)。