ヨハネの福音書 冒頭より

Εν άρχή ήν ό λόγος, καί ό λόγος ήν πρός τόν Θεόν, καί Θεός ήν ό λόγος. Ούτος ήν εν αρχή προς τόν Θεόν. Πάντα δι ' αύτου έγένετο, καί χωρίς αύτου έγένετο ούδέ ένα ό γέγονεν .

In the beginning was the Word,and the Word was with God. He was in the beginning with God. All things came into being through Him,and without Him not even one thing came into being that has come into being.

初めに言葉があった。そして言葉は神と共にあった。
この新約聖書ヨハネの福音書の冒頭部分は非常に有名な1節だけれど、この、初めにあったとされる「言葉」をもう少しギリシア語のニュアンスに近付けて「reason:理性」と捉え直すことで些か文章の趣が違って見えるような気がする。
世界の初源、本質…つまりαρχη(アルケー)をλόγος(ロゴス:reason)と措定しようとする派は古代ギリシャにおいて1つの大きな主流であり、ヨハネのこの冒頭はそこからの影響の片鱗を感じるけれども、では世界の本質・源流(αρχη)がロゴス(λόγος)であるということは何を示唆しているのか。
古代ギリシャの哲学者の中でも、その最も源流とされる人たち…パルメニデスを初め、タレス、ピタゴラス等…の興味関心は自分たちの眼前に広がる世界を、その生成の仕組みも含めてどのように把握するかということだった。言い換えればαρχηの探求がその主眼だった。
アナクシマンドロスは眼前に広がる世界を

Το ἄπειρον. (それは、限りがない)

と表現したようだが、この言葉は当時の哲学者たちが世界をどのように見ようとしていたのかを象徴しているように思える。

このような、世界を分析的に見て取ろうという姿勢が無い場合、私たちにとって世界とはただ流転し生成するだけであり、その流れすらも意識することはなく、その流れに包含されて生きるだけだ。
その生活から一歩外へ出て、世界を分析的に見て取ろうとすることで初めて、その正否に関係なく世界を語れるようになっていく。ロゴス(λόγος)がreason(理性)を表すのであれば、このロゴス(λόγος)こそ、世界を世界がこちらに与える影響を直感受け入れるだけの状態から抜け出すための要因であるということができるのではないか。
プラトンの有名な例えに洞窟の例えというのがある。洞窟の中の暗闇に投影された影はそれそのものではないが、何も知らなければいともたやすくそれをそれだと信じてしまう。この状態は人間にロゴス(λόγος)が備わっていない状態からロゴス(λόγος)を知っていくことの重要性を示唆しているけれど、ヨハネに還せば、そのロゴス(λόγος)を備えていたのは神に他ならないというのだ。

ヨハネの冒頭にある、ロゴス(λόγος)は神と共にあり、そこから全ては生み出された。というのは至極当然のことだ。つまりロゴス(λόγος)が無ければ世界を語ることができないかだ。人間にロゴス(λόγος)が無ければ、単純な感覚による生活しか残らない。
言い方を変えれば、「○○(事物そのもの)は○○(ロゴスによる言い換)である。」という言及は全てロゴス(λόγος)の産物である。仏教的に言えば、ロゴス(λόγος)のせいで○○は〇〇であるというような余計なレッテルを貼られたということだ。
このように捉えることも出来るだろう。私たちに
ロゴス(λόγος)が備わっていない場合、その眼前に広がる世界は

x=y

である。しかしそこにロゴス(λόγος)を介在させると

f(x)=y

が成り立つ。

そしてロゴス(λόγος)によって2次的に措定されていく諸々を「知識」と置き換えても良い。要はロゴス(λόγος)を持っている人間はそれを持っていない人間よりも多くを「知っている」ということだ。
「知らない者」にとって「知っている者」が権力者であるということは言うまでもない。
もう1度ヨハネに戻るけれど、ロゴス(λόγος)が神と共にあったということは、神は(知らないもの:民衆とするならば)民衆よりも多くのことを知っている者であり、権力者である。

Εν άρχή ήν ό λόγος

まず始めにロゴス(λόγος)と神が共にあったこと。これは「知っている者」と「知らない者」の間に介在するヒエラルキーを示している。歴史を辿れば様々な社会の様態に気付かされるが、その変遷の根底に流れているのはこの「知っている者」と「知らない者」の相関関係であり、この両者の在り方を知ることができればその社会のヒエラルキーを知ることに繋がるように思うし、この先、この両者がどのように変遷していくのかを想像してみることは、今後の社会の様態を考えるということにも繋がり、非常に興味深い。

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