発酵分解するニッポン
日本という国は、火山や地震の活動が非常に活発で大地がつねに蠢いている、そんな国です。
火山や地殻変動によって造られた急峻な地形が連なり、そこに梅雨には長雨が降り続け、夏には台風の通り道となって南からの雨風が吹きこむので、潤沢な雨量が大地を削って、さらに起伏に富んだ地形を造り出し、流れの早い河川があちこちに生まれることになりました。
そんないろんな刺激が絶えず混じり込む風土は、狭い範囲の中でもさまざまな環境条件の違いがあって、その環境の違いが豊かな植生のグラデーションを形成し、そこに住む微生物たちもまた多様性に富むことになりました。
日本の伝統食にはさまざまな発酵食が存在しますが、多様性に富んだ微生物たちが豊かな賑わいを見せるこの土地は、ある意味、土地自体が旺盛な発酵分解力を備えていると言えるかも知れません。
宗教学者の中沢新一さんが著書の中でこんなことを書いています。
日本人は、キノコや粘菌のような「分解者」である。
なるほど。そう言われてみると何だか妙にしっくりきますね。発酵大好きなのでなおさらです。分解者。文化医者。ふふふ…(笑)。
確かにこの地に住む私たちの祖先は、昔からその旺盛な発酵分解力を利用して、さまざまなモノを分解し、そのカタチを壊して、そこからスピリッツ(酒精、精神)を取り出してきたのかも知れません。
極東に位置するこの島国には、西方からさまざまな文化や文明がやってきましたが、それらはすべて巨大な太平洋に行く手を阻まれて、まるで吹き溜まりのようなこの東の果ての地に留まるうちに、この土地の持つ力によって分解され、カタチを失い、スピリッツへと発酵昇華させられていきました。
この地に住む者たちは、はるか西方にあると伝えられる浄土を夢見ながら、この地で見ることのできる事象はすべてうつろうモノ、かりそめのモノとして見て、つねにその奥に潜むスピリッツを取り扱おうとするので、まるですべての物事が、影絵のような、陽炎のような、そんな覚束なさを纏い始めてくるのです。
そういえばシュタイナーもまた、日本人の醸し出すその透明感について、どこかでナニか言っていました(うろ覚え)。
それゆえにこの地に漂着するモノたちは、どれもこれもがいつのまにやら日本風へと、ミニマルに、カワイイに、そしてスピリッツに。
あらゆるモノを飲み込み、物質的要素を分解して、スピリッツへと発酵昇華させてしまう土地。日本という国は、もともととても分解的で発酵的でスピリチュアルな土地柄なのでしょう。
そう考えると、確かに私たちはキノコだし粘菌なのかも知れません。
「極東キノコ」あるいは「極東粘菌」。
なかなか硬派な字面です(笑)。
そのような事物を分解して「精神化/霊化する力」が日本文化の特徴なのだとしたら、その対極に来るのが事物を構築して「物質化する力」としての欧米文化であると言えるでしょう。
欧米文化の持つ、物事をパッと論理化したりメソッド化して、具体に構築してゆくその力は、本当に卓越したものがあります。
そんな欧米文化の持つ「構築力」が、時代の後押しも受けながら世界中へとどんどん広まっていったのが、いわゆるグローバリズムだと言うことができるでしょうが、あまりにもそちらの方へと傾きすぎてしまった結果、昨今その弊害がどんどん見過ごせないほどにまでなってきています。
日本文化の持つ「分解力」は、そんなグローバリズムの持つ物質主義的な「構築力」の弊害を無毒化して自然に還す力を持っているのです。それこそ森に生えるキノコのように、粘菌のように。
なぜ日本人は神聖な神宮を20年ごとに分解して建て直すのか?
それはやっぱり日本人がキノコであり粘菌だからなのです(暴論)。
理屈じゃないんですよ。もちろんいくらでも理屈は付けられるでしょうが、芯は理屈じゃない。
ある意味この土地の「地霊」がそう囁くのでしょう。粘菌は直観的にその囁きに突き動かされているに過ぎません。
そこに潜む叡智は、これから見直されるべきものであるし、これからますます必要とされるものだと思っています。