遊びの中のからだ育て
昔からある「子どもの遊び」というものは、「子どもを育てる」という観点から見てよくできているものが多い気がします。
全身を大きく動かしたり、あるいは指先を細かく繊細に使ったりして、からだをさまざまに使い分ける練習になっていたり、大勢の子どもたちと協調してチームプレーで動く練習になっていたり、年齢の異なる集団で仲良く遊ぶためのルール作りの練習になっていたりと、私たち人間が社会生活を営んでいくためのさまざまな練習になっているのです。
しかも多くの遊びが、その遊び専用の道具が無ければ遊べないというようなこともなく、むしろそこら辺で手に入るものを上手く活用したり、人数が増えても減っても対応できるような、やわらかな設計でできています。
そのようなやわらかな設計の遊びの中には、人として社会の中でさまざまな状況に対応しながら、いろんな人と関わって生きていくための土台作りになっているような、そんな面があるように思うのです。
たとえば「今日はウチに親がいないから…」とか言って誰かが連れてきた小さな弟が加わったときに、その子も含めたみんなで楽しく遊べるよう、「いつものルール」ではない「臨時ルール」を立ち上げて、みんなで合意を形成してゆくなど、きわめて原始的な民主主義の実践とも言えます。
(※私は「みそっかす」と読んでましたね。)
そこで「ルールは大事だが、ルールは変えても良いのだ」という、とても大切なことを学ぶのです。
そうやって子どもたちは遊びの中で、いろいろなことを感じ、いろいろなことを考えて、いろいろな実践をして、いろいろなものが育つのです。
たとえば「にらめっこ」という遊びなどもよくできています。
二人で顔を近づけお互い顔を見合わせながら、「だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ。笑うと負けよ。あっぷっぷ」と歌って、お互いパッと変な顔になる。そうしてお互い顔を見合わせながら、先に笑ってしまったり、目を逸らしてしまった方が負けという有名な遊びです。
やっていることはシンプルです。まずお互いしっかりと顔を向け合う。そして目を逸らしたり、笑ったりしたら負け、という単純なルール。
ただの遊びではありますが、よくよく考えてみると、これって人間関係の基本であるコミュニケーションの大事な作法だと気がつきます。
つまり、誰かとコミュニケーションをするときには、ちゃんと相手の目を見て向かい合い、そして目を逸らしたり、笑ってごまかしたりしない、ということ。
ついつい私たちは、真面目な話をしようというときに、照れたり恥ずかしくなったりして、相手から目を逸らしてしまったり、笑ってごまかしてしまったりすることがありますが、そういうことをしたらダメですよ、というルールになっているのです。
そうやって相手ときちんと向き合う作法というものを、言葉で説教してアタマから教えていくのではなく、遊びを通してからだで覚えていくようにできています。
またほかにも、たとえば「だるまさんが転んだ」という遊びがあります。
鬼役になった一人の子どもが公園の端っこにある壁や木のところに立って、それ以外の子どもたちは反対側の端っこに集まります。子どもたちは、鬼役の子どものところまで行って、鬼のからだにタッチできたら勝ちですが、鬼が見ていないあいだにしか動けないという縛りがあります。
鬼もずっとみんなを見ていることはできなくて、たびたび壁の方を振り向いては「だるまさんが転んだ」と言わなければなりません。そうして鬼が「だるまさんが転んだ」と言っているあいだだけ、子どもたちは自由に動けるのですが、鬼が言い終わってパッと振り向いたときに、まだ動いていたり、よろけてしまったらアウトで鬼に捕まってしまうという、そんなルールです。
ですから子どもたちは、鬼の身振りに合わせて走っては止まり、鬼が見ているあいだは、とにかく固まったまま動かないようにしなければなりません。
これもまた有名な遊びではありますが、いったい何をやっているのかなと考えてみると、子どもたちは必死に「自制する」ということをやっているのですよね。
勝つためには早く鬼のところまで行きたいのだけれど、鬼が振り向いたときには、その気持ちを抑えてピタッと一切の動きを自制しなければいけない。
そう考えると、これも社会に出て多くの人たちと関わっていくときの身振りとして、非常に大切なトレーニングになっているのではないでしょうか。
昔からある「子どもの遊び」というものは、永い年月のあいだに繰り返し受け継がれながら、練り上げられていったり、磨き上げられていったのかもしれません。
そんな古い習慣に込められた「人育ての智恵」には学ばされることばかりで、ぜひ今の時代にも活かしていきたいものばかりです。