お金は虚であって実ではない
1.虚と器
いま「お金ってなぁに?」というオンラインの連続講座を行なっているところなのですが、お金について改めて考えれば考えるほど、整体で語られる「虚(きょ)」という概念について思わずにはいられません。
整体の創始者である野口晴哉は「整体は虚の活用法である」と言いました。
この「虚(きょ)」という概念は、人間のさまざまな営みを語る上で非常に重要な概念となるのですが、いかんせんその性質上「これがそうです」とハッキリ断言して語ることができないので、話そうとするたびに、いつも私は悶えながら落ち着かない思いをすることになります。
「虚」について話そうとすると、言い淀み、言い直し、言い閊え、言い繰り返すしかないのです。
でもそうやってひたすら語りながら最後まで語り得ないところに、「虚」の姿がボンヤリとある種の「抜き型」のように浮かび上がってくるのです。仕方がないんです。そうやって語るしかないんです。「穴ぼこ」なんです。
「虚」は訓読みで「虚(うつ)ろ」とも読みますが、その何とも捉えどころのないモノを扱うために、私たちは「器(うつわ)」を用います。
器の本質は、中が虚ろであることです。器に中身が詰まっていては器の働きを為しません。空っぽであるということが器の本質なのです。
中が虚ろであるからこそ、そこにさまざまなモノを容れることができるようになり、持ち運ぶことができるようになるのです。
虚ろであるということは、あらゆるモノを受け容れます。さまざまなモノを受け容れ、受け渡します。それこそがまさに「虚」の働きであり、その本質です。
ですから「虚」は人を動かします。
そして人を繋ぎ、もっと言うなら人を育てます。
その営みを支えるのが「器」なのです。
何を言っているのか分かりづらいかも知れませんが、でもそうなのです。
そういう意味では、古来より「器」を作り用いることこそが、人の為すべきことだったのかも知れません。そしてその活用が「整体の技術」だと野口晴哉は言うのです。
…ということで私が講座中、皆さんの前でずっとモジモジしながら何だか要領を得ないことを言い繰り返しているその身振りは、できる限り自ら「器」であろうとするその懸命な努力の姿なのだと、そうご理解賜わりますと大変幸甚なのでございます…ハイ(汗)。
ただ、人というのは分かりやすさを求めます。もちろんそれは私も同じで、「虚」を追いながらも、どこかで「実(じつ)」を求めているのです。
その働きはおそらく人間の本性に関わってくるほど強いもので、なので気を付けていないと、それと気付かぬうちに、仮の容れ物である「器」こそが本質なのではないかと、そんな風に思い込み始めてしまうことがあります。
それは、誰もが陥りかねない落とし穴なので、よくよく気を付けておかなければなりません。
2.お金という虚
そして現代で言えば、「お金」というものがまさにそれに当たるのです。
本来、実体を持たないモノであったはずが、今やほとんどすべての人々がその存在をまるで実体を持つかのように扱い、その人々の信仰によって巨大な「マネー」という空想上の巨獣が生み出され、それが世界中を駆け巡りながら、現実世界に多大な影響を及ぼしています。
そういうことが好きな人たちが、マネーの行く末を予想しつつ「当たった~!」とか「外れた~!」とか言って楽しむのは一向に構いませんが、それがあまりに盛り上がりすぎて、現実世界の生活必需品や誰かの心身を壊すほどになったら、皆さんだったら怒りますよね? いや、怒るべきです。
もはやデジタルとなったお金の数字を増やすために、現実社会がボロボロになっても仕方がないなどという理屈のどこに正当性があるのですかね?
「こら! そこまでやったらアカン!」と言って叱る大人が必要なのですが、それは本来「政府」の役目であるはずが、その”大の大人”役である政府までもが空想のゲームに興じてしまって、「お金が大事だ」とか本気で思い始めてしまったので始末に負えません。
「イヤ、その『お金』は、オマエ(政府)が作ってるんだよな?」と、思わずツッコミを入れたくなってしまうのもそうなのですが、でもそもそも大事なのは「お金」ではありません。
大事なのは、実体である「経済活動」そのものであって、決して「お金」ではないのです。
経済活動がグルグルと巡るためにお金があるのであって、お金を生み出すために経済活動があるのではありません。
これが「虚」を容れる「器」を「本体」だと思い始めてしまうという、人間の陥りやすい「落とし穴」なのです。
偶像崇拝をしているうちに、偶像が神様だと勘違いし始めてしまうのです。お金を使って生活しているうちに、お金こそが必要な物だと勘違いし始めてしまうのです。
お金とか愛とか神様とか、本来「虚」であるモノを「実」と思い込み始めると、「認知世界」と「現実世界」の間に徐々に齟齬が生じてくるので、それを無理矢理是正しようとして「現実世界」をねじ曲げようとする暴力が生まれます。不幸のはじまりです。
それは有史以来、延々と繰り返されている人間の業(ごう)であるかも知れません。何度も何度も繰り返されているのです。
3.虚と実の取り違え
初めは「とりあえず、仮にこうしておこうか」というような気持ちで始めたものが、しばらく続けているうちに、それが本当の現実だと強く思い込み始めてしまうようなことが起こるのです。
「ごっこ」や「遊び」のようなものとして始めたことが、どんどんハマっていくうちに、それ以外の現実的なことを蔑ろにし始めてしまう、そんなふうになってしまうことがあるのです。
いや、確かに子どもの空想に付き合うのも大事なことですよ? でも、そもそもその子どもの空想を成り立たせている「現実の営み」があるでしょ…っていう話です。
みんなで数字を増やすゲームに夢中になっているその同じお家では、だれかがご飯を作ったり、お掃除をしたり、お洗濯をしたりしているんですよ。誰がやってくれてると思ってるんですか。マッタク。お金なんかいくらあったってそれだけじゃ何にも生み出さないんですよ。
畑ぶっ潰して、お店ぶっ潰して、工場ぶっ潰して、働く人ぶっ潰して、共同体をぶっ潰して、全部売っ払ってお金に換えて、そのお金でいったい何ができるのか教えて欲しいですよ。お金使うところ残ってませんよ?
子どもたちみんなで交換したりしながら大切にしていたお宝を、「全部自分の物だ!」と独り占めして喜んでいたら、みんなシラけてしまって、そのうちみんなお家に帰ってしまいます。
後に残るのは、お宝だと思って集めたガラクタをぎゅっと握りしめたまま立ち尽くしている自分独りぼっち…。途方に暮れて佇んで、そうして初めて気づくとか…そんなの寂しすぎます。
私はそんな身振りを見ていると、そこに「寂しさ」ばかりを感じてなりません。寂しい子どもを作っちゃいけませんよね…。ホントに。
そのためには、私たち大人が「お金が大事」というファンタジーに染まりかけていることを自覚しなければなりません。
それは、子どもたちの中に「冷たい虚構(寂しさ)」を生み出すことになるのです。