【雑記】教育における”コスパ”とは!?「校則改革のコスパが悪すぎる」を読んで思ったこと
先日、こんな記事を読みました。
この記事ではタイツの色を例に、校則の決定権をもつのは校長なのだから、校長が「明日からは何色でもよい」といえばコストはゼロで同じパフォーマンスを得られる、とされています。
従来のように生徒と教員、保護者等々が話し合って変えていく方法だと、生徒や教員の負担が大きい割に、タイツの色が自由になっただけと成果が小さいというのです。
ここで言われている「パフォーマンス」とか「成果」というのは「校則が変わった」という事実を指しているのでしょう。しかし本当にこの事実だけが校則改革の「パフォーマンス」なのでしょうか。
〈私の考え〉
私は「校則が変わった」という事実は、むしろ主たる「パフォーマンス」ではないと思います。
校則改革の真の「パフォーマンス」とは、生徒の民主主義社会への参加意識の高まりではないでしょうか。
言い換えるなら、生徒が「ルールって自分たちで変えられるんだ!」と感じる経験をすることです。
〈理由〜学校は成長の場〜〉
なぜこう言えるのでしょう。学校にとって大切なのは「生徒の成長」だからです。極端な言い方をすれば、生徒が成長するなら校則の中身なんてなんだっていいのです。
校長が鶴の一声で校則を変えた場合、生徒にはどのような影響があるでしょうか。
校則がゆるくなったことを喜ぶ声が上がるでしょう。しかしその声の中身は、「校長先生、校則を変えてくれてありがとう」もしくは「なんかゆるくなった。ラッキー」です。
つまり校則が「上から降ってきたもの」という事実は変わらないのです。これでは生徒は「ルールって自分たちで変えられるんだ!」とは思わないでしょう。
反対に生徒が話し合いに参加した場合はどうでしょう。
教員、保護者、生徒はそれぞれ異なる意見を持っているでしょうから、話し合いには時間がかかります。
しかし話し合いの結果校則が変われば、自ら行動することの意義、話し合いの意義、民主主義社会に参加する意義を感じられるでしょう。
つまり「ルールって自分たちで変えられるんだ!」と感じる経験をすることができるのです。
確かに「コスト」、つまり時間はかかります。
担当教員や生徒は生活指導部会で提案して叩かれ、運営会議や職員会議等で提案して叩かれ、保護者や地域住民の参加する回で叩かれ、大変な思いをするでしょう。
話し合いの前には生徒への話し方・内容指導も行わなくてはいけません。
もちろん生徒(多くの場合生徒会役員だろう)も、準備や話し合いに多くの時間を割かなければならなくなります。
しかしこの「時間を書けて意見を準備し、批判を受け、議論して共にルールを作り上げる」という過程は、むしろ民主主義社会のあるべき姿ではないでしょうか。
これを「コスパが悪い」と切ってしまったら、民主主義社会の担い手は育ちません。
「ルールはお上が決めるもの。下々の臣民はただそれに従えばよい」という旧時代的な発想しか育めないでしょう。
教育全体、社会全体で見たとき、こちらのほうが余程「コスパが悪い」のではないでしょうか。
教員の労働時間を減らすための提案を、と考えてくださっている筆者・内田先生の気持ちはとてもありがたいです。
内田先生の給特法や部活等への批判は、個人的には大好きです。
ただ校則改革を「コスパ」で捉えようというのは、少々行き過ぎの感があります。
校則改革は、社会の担い手を育てるという学校本来の役割(の一部)を果たすための上質な経験機会だと思います。
それを潰してしまうのは、あまりにもったいことではないでしょうか。
〈まとめ〉
以上のように、校則改革の「パフォーマンス」とは、生徒が「ルールって自分たちで変えられるんだ!」と感じることであり、その結果、生徒の中で民主主義社会への参加意識が高まることです。
だから校則改革を校長の鶴の一声で行ってしまっては、余計に「コスパ」が悪いということになります。
みなさんは、どう考えますか?
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