円安について③
最近、大阪市内の梅田や難波、天王寺を歩いていても、地下鉄に乗っていても、外人さんがとても多い。もはや、すっかり外人さんを見慣れてしまった感じすらある。
前にも書いたが、観光客が日本に来て、盛大におカネを落としてくれるのは、大歓迎である。
これからの日本にとっての観光産業は、まさに「基幹産業」という位置づけで、国を挙げて、徹底的に推進すべきである。
タイなんかに行くと、地元住民が食事をしている飲食店と、観光客がおカネを落とす飲食店では、明らかな価格差がある。タイまで行かなくても、横浜の中華街などでは、中華街で働いている地元の人たちが食事をする店と、表通りの観光客向けの店舗とは明らかに異なる。これからの日本も、観光客に盛大におカネを落としてもらうための「仕掛け」「仕組み」を考えなければならない。
先日、中国出身の実業家と話をする機会があった。
彼女は、日本の大学に留学した後、日本で就職して、結婚もした後、独立して事業を起こした。本業の方の事業とは別に、最近は中国人の富裕層向けの不動産事業を展開して、大層な繁盛ぶりなのだそうである。日本でタワマンとか、京都の町屋とか、とにかく日本の不動産の「爆買い」需要への対応に追われているらしい。
中国人の富裕層は、決して共産党政府など信用してはおらず、この先、どんな政変が起こったとしても大丈夫なように、海外に財産を移転させている。日本は近くて安全そうなので、彼らからすれば、「逃避先」としてはきわめて望ましいのだそうである。日本の新築のタワマンなど、かなりの部分はそうした中国人の富裕層が投資目的で購入しているという。
僕も、大阪市福島区にある駅から至近距離のタワマンにお邪魔したのだが、ロビーに座っている親子連れも中国人であったし、エレベーターホールですれ違ったのも明らかに日本人ではなかった。室内は、いつでも賃貸に出せるように、余計な荷物はなく、生活感ゼロであった。同じような部屋を他にも何室も保有していると言っていた。
日本は人口が減っていくし、新築のタワマンも50年経てば、老朽化する。普通の50世帯くらいのファミリー層向けマンションでも、老朽化すると、大規模修繕とか建て替えとなれば、簡単には話がまとまらない。タワマンなど、いずれは廃墟になるだろうと思うのだが、外国人富裕層にとっては、あくまで金融商品、投資運用商品だから、とりあえず財産を避難させておくための道具なのであろう。いずれは適当なタイミングで売り抜けて、また何か別のものに投資するだろうし、残された老朽化したタワマンがどうなろうと、彼らにとっては知ったことではない。神戸市は都心エリアでのタワマンの新築を規制しているが、これは中長期的な視点に立った優れた施策だと思う。
話は逸れたが、外国人による日本国内への投資や消費については歓迎すべきことである。
『弱い円の正体 仮面の黒字国・日本』という本を読んだ。
日本は世界最大の対外資産を保有しており、外貨準備高もトップクラスであるにもかかわらず、どうして円安になるんだという疑問に対する1つの説明を提供してくれている。
緻密な説明は省略するが、要するに、キャッシュフローベースで国債収支というものを考えるべきだというのが、本書の説明である。
日本の国際収支の中の経常収支で、もはや貿易収支というもののウェイトは重要ではなく、所得収支、つまり対外金融債権・債務から生じる利子・配当金等の占める割合の方がとても大きくなっている。
しかしながら、これらは名目上、国際収支のプラス要因ではあるが、実際には日本にキャッシュが戻って来るのではなく、海外でそのまま再投資される方が多い。つまり、預金残高が増えただけであり、国内での消費に回ることもなく、新たな雇用も生まれず、日本国内はちっとも潤わないのだ。
そう考えると、直接的におカネを日本国内に落としてくれるという意味での、観光客も含めた外国人による投資、消費はとても重要である。
どうやって、海外からの投資や消費を呼び込むのか。日本でおカネを盛大に使ってもらうには、どういう「仕掛け」「仕組み」が必要なのか。
我々は、もっと真面目に知恵を絞らないといけない時代に来ていると思うのだ。今のままでは、まだまだ、いろいろな意味で中途半端である。
観光産業にしても、日本人の根が質素なのか、貧乏性なのか、海外のホントのおカネ持ちからすれば、気前よくおカネを使わせるようになっていない。ラグジュアリーで、特別感のある「おもてなし」の仕掛けを考えれば、もっともっとおカネを落としてもらえるはずである。
投資に関しては、海外から見て、意味不明な規制が多すぎる。言葉の問題もある。英語でビジネスができ、英語で生活が事足りるようにすれば、もっともっと投資を呼び込むことが可能である。
「お客さま第一」ということで、海外からの投資や観光に対して、もっと本気で国を挙げて、誘致に取り組むべきであろう。「伸びしろ」は、そういう意味では、いくらでもあるはずである。