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関わりにおける環境 はじめに

はじめに
 「関係哲学」。関係を哲学することを趣旨にしたものである。
考える事になったきっかけは、2003年7月に開かれた環境シンポジウムで質問した事にある。諸先生方に「環境とは何ですか」と聞いた時、明確に答えられる先生はおらず「環と環の境目」というような曖昧な事を述べるに留まったように思われる。その後、辞書で調べてゆくことにより、「環と環の境目であり、そこで生活する人、生物に対して働きかけることで、性格、資質を作るもの」(例解国語辞典[第3版]、遍歴代表;林四郎<三省堂>より)としてあったが、関わりあう関係の中で環境が形成されていると考えるようになり、考察を深めてゆく中で「関係」が対称性に基づき、その関わりあう中で循環する円が成立するのならば、互いに影響し会うことで生きているのではと考えるようになった。
この事について考えるようになったのはもう一つ理由がある。2000年に沖縄大学に編入した年の10月にサークル塔内で起こった盗難事件があり、それを止めようとしたが手を出してしまって逆にやられてしまう経験があり、「裁判に訴える」と脅された事や、耳横におもちゃの銃を向けられたことがあり、精神的に追い詰められていった時がある。そのせいか人間に対しての極度の不信や身構えることが多くなり、どうしていけばよいのか分からなくなった。それと共に今まで学校の授業で勉強していたことに対して全てに疑問を抱くこともあり、それらの疑問について思考して、ノートにまとめてゆくようになった。関係について考えるようになり、関係の中での起こる執着からどのようにして超えてゆくのかという事を主題にするようになった。今回、神話の事例を用いることになったが、講義禄「対称性人類学 カイエソバージュⅤ」(著者;中沢新一、講談社メチエ<2004>)によるところが多かった。本書は、対称性に基づく関係に基づくことで神話は人間と動植物等の関わりについて論じている。対称性とは互いに同一で相互的に対応していることにあり、a=bであると同時にb=aとなっている状況にある。同一であり、関係を通して互いに混ざり合うことで一致して共有しあってゆく。混ざり合う環境を作ってゆくことで人間と自然との間には対称的な関係が作られるが、現代になる過程によって対称的な関係は、非対称なものとなり一方的に人間は、自然を抑圧していった。抑圧に対してどう対処していくかを本書は論じている。本書を読んで行く内に人間が非対称に抑圧されることに対して、どのようにして向き合ってゆくかを、論じている。
神話を事例として用いたのは、那覇市の与儀公園にいる野良猫や自宅の近所にいた野良犬たちとの交流や中学校で教育支援の仕事で子どもと関わった事にある。
野良猫達は人間と出会うが、極端に人間を嫌う傾向が多い。しかし、自宅の近所や公園にいる犬や猫は餌をもらっている為か人間慣れをして、好意的な物達が多い。野生化した動物達と関わってゆく内に彼らに対して、親愛の情を持つようになった。交流する中で親愛の情が湧いてゆく内に犬や猫たちに対して友人と思うことが多く、気がつけば親しくなっていた。
この事を踏まえてゆくと、対称的な関係は同時性の軸によって成り立ち、時間的な継起が消滅した中で生じている。同時性の軸は、円環を創って循環し、同時に関連しあうもの同士が混ざり合う形である対称性の論理を創ってゆくことで関わりあう環境が生じる。環境が環と環の境目によって作られているのならば、人間と猫(または犬)との中での経験が神話として語られてゆく事で、関わりが成り立つのではと考えた。
非対称に抑圧されることに対して、円環が非対称な形になってゆくのならば、経験したものを還元してゆくことで確信を作り、円環の年輪を生成する行為によって、一方的な非対称に対してどのように年輪の円の上で経験した事実を用いてゆくことで神話的思考を行ってゆくか、又は非対称な状況を対称な関係になるかは、経験した物事を知恵に組み替えて能動的に表現されてゆくもので、神話はその方法の内の一つである。神話を思考する原理は、自身の周囲にある具体的な道具と材料を用いて組み立ててゆくことにより創って行く。関係においても同様なことで、関わりあう環境の中から具体的な情報を集めた中で、用いてゆく道具と材料を選んでゆく。
この行為は「器用な仕事(bricolage)」と呼ばれている。私は中学校で教育支援をする仕事を去年の4月~7月まで行なっていた。この短期間の中で、神話的思考を行なっている子供と出会った。彼とはボランティアで2年前に出会った事が始まりである。彼の特徴を挙げると、周囲にある具体的な物事を集め、まとめて話を創ってゆき、表現してゆくことが印象的で偶然、彼の通う中学校で仕事を得たとき、空想について議論をした。
中学校で働いていたときに彼と議論したことで印象的なのは、「フレディ―ジェイソン」についてである。「フレディ」、「ジェイソン」はアメリカ映画に出てくる悪役キャラクターであるが彼は、二人の悪役のヒーローが互いに戦う事を常に考えていた。(注;他にもまだたくさんあるのだが)その二人が戦うことでどちらが勝つのか、どちらが強いのかという事を、私に何回も聞いてきて、議論した。
まとめてゆくと、環境とは「関わり」によって異なる物同士が関わりあう境目に作られてゆく物で、共生するつながりである。神話は「人類最古の哲学」と言われているが、それは周囲にある動植物や社会関係等の具体的な物事について語る行為であり、異なる物同士の性格を理解したうえで、環と環の境目をつなごうとする接点である場所を見出している。
今までの形跡をたどってゆくと、異なる物同士が生きる境目は、なくなっているような気がしてならない。これは私自身にも言えることだが、人間に対する疎外感からか一方的な非対称に成り果てたことさえある。この論文を書いたのは、一方的に抑圧されることで、起こる阻害によって起こる偏見や憶測に対して、どのようにして知恵を見出してゆき、関わりを創ってゆくかについてである。論文の内容は大部分のところ、抽象的でやや読んでいて難しいと思われることも多いが、ご了承願いたい。



※この文書は2005年に書かれたもので、当時は論文と思い込んで書いていたが、今思うとエッセイだったので、広い目で見てもらいたい。

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