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大学教育がおかしい。

「教育」という言葉は
かなり抽象度の高い概念なので
人によって定義が異なる。

最近とても危機感を感じるのは
大学教育が何か
「資本主義社会での兵士を育てるためのもの」
として認識され始めているということだ。

SNS上のいかにも無教養な大人や某ブロガーなどが
(もちろん教養のあるブロガーさんも
たくさんいらっしゃいます)
「大学なんて必要ない。
勉強せずにビジネスの勉強した方が有意義」と。

いやまあその考え方を否定するわけではないが、
本来大学教育(リベラルアーツ)というものは
その人が自由に生きるために生まれたのだ。

「教育の目的」は①人間に内在する能力や資質を引き出すといった観点②経験や知識を次の世代に伝達し、国家 ・社会の一員を形成するといった観点、③教育法規上の規定といった観点がある。「リベラルアーツ」の目的は、もっぱら自由に生きるためという目的である。

だから絶対に誰かから
強制されるものであってはならないし、
実用的なものを求めるのは間違っている。

この「間違っている」というのは
教育の本質からずれているということであり、
僕の価値観を押しつているわけでは決してない。

大学とは?

大学の始まりは、
学びたい人が身分や年齢関係なく
お金を出し合って
そこに教師を雇ったところから始まった。

だから好きな時に、好きな学問を
好きな先生を雇って学ぶ事ができた。

それがなぜか今は
「職業訓練校」と揶揄されるまでになってしまった。

「教養」というものを一ミリも理解しておらず、
本質的なものを求めない。

別にそれを否定しているわけではないが、
問題なのは右も左も分からない子供が
その情報を間に受けて、

「大学なんて必要ない。勉強なんて役に立たない。」
と思ってしまう事なのだ。

それによってその子が教養を身につけ
誰にもコントロールされる事なく自分の頭で考え
「自由」に自分の人生を生きていく武器を
身につける機会を損失してしまうところに
問題の本質がある。

僕がここで示した「自由」という意味ですが、その人が社会や他者に迷惑をかけて自分勝手にするということではありません。他者からコントロールされることなく、自分の頭で考え判断し、理性的に議論をする力を養うということです。読者の方は当然理解されていることと思いますが、コメントがあったので付け加えておきます。

大学は教養を学ぶにはもってこいだ。

ある学問に人生を賭けている人から
学ぶ事ができる。
学問の最先端を知る事ができる。

教養のある教授から学ぶことは多く、
僕にとっては天国のような場所なのだ。

自分の興味のある学問を
好きなだけ学ぶ事ができる。

こんな天国はないだろう。

とはいえ、
大学が万人に必要かというとそうではない。

大学は手段であるため、
大学に入らなくとも学校に入らなくとも
教養は磨き続け身につける事ができる。

逆説的に大学に入っても
教養が身につくとは限らない。
したがって
「高学歴=教養がある」という等式は成り立たない。

この問題の本質は、大学に行くべきかどうかではなく
教育の意義を履き違えることで、
義務教育においても
教養を身につける機会を失うことにあるのだ。

教養とは?

さっきから教養、教養と連呼しており、
「じゃあお前は教養があるのか」と
後ろ指を刺されている気がする(笑)

結論から言うと僕は教養がない。
だからこそ毎日教養を磨くために行動している。
教養はないが、教養を身につける姿勢は
持っていると自信を持っていえる。

では教養とは何か?

教養という言葉は
「リベラルアーツ」と呼ばれたりもする。

この概念は
「奴隷ではなく自由人として生きるための素養」
としてギリシャ・ローマ時代に生まれた。

アメリカでリベラルアーツが導入された理由は、
将来国の命運を左右するような決断を下す
各分野のエリート達が共通言語・共通認識を持ち
建設的な議論を行うためである。

僕は教養をテーマに扱った本だけで
10冊以上読んだが、
自分なりに大きく三つのポイントにまとめた。

1:知識ではなく知恵
2:想像力、洞察力、思考力、共感力、人格的なもの
3:謙虚、素直に学ぼうとする姿勢

1:知識ではなく知恵

認知心理学での概念で
「ゲシュタルト」というものがある。

ゲシュタルトは「部分でなく全体や構造的」
と言語化する事ができるが、
これだとわかりにくいので
木の根っこをイメージして欲しい。

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このように知識が
木の根っこのように繋がっている事で
「知恵」という概念に昇華されるのだ。

知識単体で持っていても
根っこのように繋がっていなかったら
その知識は役に立たない。

知識はすごいが、
賢いとは言えない人は周りにいるだろうか?
クイズに強いからといって
賢く教養があるわけではない。

その知識が体系的で全体性を持っており、
「知恵」に昇華されている事が重要なのだ。

2:想像力、洞察力、思考力、共感力、人格的なもの

想像力、洞察力、思考力、共感力など
人格的なものも
教養を構成する一つの要素である。

あなたもお気づきだと思うが、
これらの能力は
長期的にビジネスにも生きてくるし
人間関係など日常生活にも大いに生きてくる。

皮肉なことに、
教養というすぐに役立たないものを捨て、
すぐに役立つ「ビジネス」「資格」などに走った人は
長期的な目線で見ると損をしている。

「すぐに役に立つものはすぐに役立たなくなる」
という絶対法則が垣間見える。

自分自身、
投資ファンドに企業分析を提供していた経験から
伸びているスタートアップや
世界を代表する企業のCEOは
例外なく高学歴で教養があるということを知っている。

二つの博士号を取得している強者も少なくなく、
ゴールドマンサックスのCEOが
兼業でDJとしてクラブで活躍しているというのも
このことを象徴しているだろう。

3:謙虚、素直に学ぼうとする姿勢

『こころ』に出てくる
「向上心のないやつはバカだ」
という言葉は有名である。

人間、謙虚な心、知的好奇心を失った瞬間に
人間でなくなっていく。

考えない人間は動物と同じなのだ。

食べたい時に食べて
寝たい時に寝て
セックスしたい時にセックスする。

動物とどこが変わるというのだろう。

最後に

偉そうに述べてきたが、
自分自身、教養が足りないため
日々磨くために行動している。

本来教養とは奴隷から抜け出し
自由人になるための素養であり、
教育の本質は資本主義の兵士を育てることではなく、
その人が自由に生きるために必要なことだと述べた。

一方で、資本主義の兵士として
資本主義社会で成功するためにも
教養というのは必要不可欠である。

その証拠に世界を代表する企業や
次世代を担う伸びているスタートアップの起業家は
例外なく教養人であるからだ。
(コモディティ企業はそういうわけではない)

遠回りですぐに役立たないと思われがちな教養は
その人の人生のためにも
資本主義で成功するためにも
絶対に必要不可欠なのだ。

だからいい大人が
「教養なんて必要ない」
「学校の勉強は役に立たない」
なんて的外れなことを言わないでほしい。

日本の将来を明るくするために。

吉田カオル

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吉田カオル
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