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マレーシアに行った

 20年ぶりに、マレーシアに行ってきた。5歳から11歳までの5年半を過ごしたクアラルンプールに三日半、ペナンのジョージタウンに二日半。

 マレーシアへ行くのは、少し緊張することだった。5年生の夏休みに日本に帰国して以来、ずっとどこかでマレーシアを「いざとなったら帰れる場所」のように思っていた。そういう場所があったから、自分の今いる場所を突き放して見てこられた。この場所が全てではないと思っていられたことは、私の空気穴みたいなものだった。

 だけどもしかしたら記憶の中で美化しているだけで、現実のマレーシアはそんなに私に優しくないかもしれない。あるいは20年も経って、すっかり変わっているかもしれない。

 出発する直前に吉野朔実の『period』という漫画を読んで、主人公の兄弟がかつて住んでいた家が更地になっているのを目の当たりにしてショックを受けるシーンで、ああそうか、そういうこともあるんだ、と思った。私たち家族が当時住んでいたバングサプテリ(という名前のコンドミニアム)が取り壊されて、丸々別の建物になっている可能性だってあるのだ。

 けれど、到着したクアラルンプールはちゃんと、懐かしかった。不思議なことに、住んでいた当時は一度も乗ったことがなかったバスに乗っていてさえ、懐かしさの塊だった。私がマレーシアに抱いてきた慕わしさは、私が関わったり体験したりした個別具体的な事柄にばかり潜んでいたわけではなくて、あの土地の、人々の周りの大らかでいい加減でダルな空気にあったんだなぁと思った。

 日本人学校の校舎は、大人になった目で改めて見てみるとあんまり立派で、私たちはなんて大事にされて守られて、のびのび生きることを当たり前のものとして与えられていたんだろ、と思った。あなたにとって必要なものが、不自由なく得られるように。脅かすものがないように。環境に埋め込まれたメッセージは強く、通奏低音のようにずっと流れている。身体は毎日それを聴いている。親が「ウチの子」を可愛がるよりももう少し広く長い範囲で、子供を育もうとする意志を感じる場所だった。あそこで過ごした時間の中で、私は大きく存在を肯定される感覚を得ていたのだと思う。

 そのことを本当に有難いと思うと同時に、罪悪感を感じる。これは確実に、日本人コミュニティの経済力によって構築された環境だ。それは、差によって実現していることだ。ガードマンに守られたコンドミニアムからスクールバスで運ばれて、ガードマンに守られた校門をくぐって、学校の囲いの中で学んで遊んで、またスクールバスで帰宅する。私たちは、基本的には日本語だけで、日本的なものにくるまれて生活できるようになっていた。外に広がっている別の生には、ほぼ触れないで生きられた。「クアラルンプール日本人学校 JSKL」と大きく書かれた黄色いバスを見て、これがいつか憎しみの対象になったりしませんようにと、不吉なことを思ってしまった。

 学校に行くために拾ったタクシーの運転手のおじちゃんが、「このへんは昔は全部ゴムの木で、すごく良かったんだ。でも日本人が学校作って、ゴルフクラブ作って、コンドミニアム作って、全部なくなった」と言った。"Last time was good. Last time was beautiful."というブロークンな表現が印象的だった。

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