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手帳の中のわすれもの

初めてスケジュール帳を使ったのは、中学生の頃だった。一冊目はたしか、「いろんな科目の宿題とか、学校の行事とかあるだろうから」と親戚のおばさんが中学校の入学祝いにくれたもの。表紙の薄ピンクがすごく好みで、リンゴをご機嫌に持ち上げている可愛いゾウのイラストが描いてあったことを覚えている。

けれどその一冊目は、正直うまく使えなかった。小学校よりも忙しくなったとはいえ、書くことがなかったのだ。宿題の管理は別に持っていた真っ白なメモ帳の方がシンプルで使いやすかったし、予定の書き込みはマンスリーで十分だった。

それでも、そのスケジュール帳に私が熱心に書き込んでいるものがあった。友達の誕生日だ。爪で挟まなければならないほど小さなケーキのシールを日付の下に貼って、「〇〇ちゃんお誕生日」と書き込んでいた。誕生日プレゼントや手紙を渡したりもしていて、毎月誰かのお祝いをしていたような気がする。

大人に近づくにつれ、ウィークリー、24時間軸、と使う手帳は変わっていった。今はすっかり、システム手帳の虜になっている。カバーは20歳のときにオーダーしたワインレッドのもので、裏表紙の隅に小さく名前が入っている。まだ時折香る革に、気が引き締まるのもいい。少し値は張ったけれど、リフィルのみ買えばいいと思えば経済的だし、何より年度の境目を自分で決められるのが気に入っている。必要ならばウィークリーや24時間軸はもちろん、Todoリストだって入れられるのだ。

今、私の手帳を埋め尽くすのは、ほとんどが仕事の予定になった。資料の締め切りや会議の予定に交じって、息継ぎのように映画の封切日や漫画の発売日が混ざる。あの頃はカラーペンを使って綺麗に書いていたけれど、今はもう黒のボールペン一色だ。キャンセルされた予定は二重線で消してあるだけで、字も綺麗とは言えない。忙しい日なんて枠から予定がはみ出して、黒い矢印がぴゅーんと余白まで飛んでいる。

あの頃手帳を彩っていた小さなケーキは、もうない。いつ、そのときめきは消えたのだろう。いつ、その温かさを忘れたのだろう。必死に振り返っても、私にはその境目が見えないのだ。

まだ間に合うだろうか。すっかり荒れ切った毎日が、再び色づくことはあるだろうか。

次の休みは、文房具屋で小さな、でもあの頃より少しだけ大きなケーキのシールを買おう。他の予定がちょっぴり窮屈になってしまったって、構わないから。

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