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【じいじからの放送大学便り③社会学概論:逸脱行為】

社会学概論「逸脱行為」


今回は逸脱の講義です。
社会学における逸脱とは「社会規範から外れること」と言うのですが、これは規範を法を犯した犯罪から宴会でのマナー違反、LINEの既読無視等なども含め「世間があかんと言うとるで」的なものに幅広く捉えようとして、それを難しく言ってるわけですね。

我々はえてして逸脱した人から規範を考えます。例えばワイドショーとかで「あの自転車のひょっこりはんはけしからんな」とか思うのですが、社会学の中には全く違うアプローチで、規範を犯した方ではなく作った側から逸脱を見る人達がいます。
デュルケームという人は「逸脱は決して無くならない」と言いました。これは人間は悪い奴だという性悪説では無く、ある規範に対して逸脱しなくなったらさらにハードルを上げた規範を作る人がいるので無限に逸脱は発生すると言ったわけです。
例えば路上で立ちションをする人がいなくなったら今度は吸い殻のポイ捨て禁止が規範となりさらに.....と言った感じです。「健全な社会には逸脱者が必要不可欠」だそうです。
また、ラベリング理論という考え方があります。これは「何が逸脱かは自然に決まるのではなく、人々がある行為に『これは逸脱行為だ!』と言ってラベルを貼るように決めつけることで逸脱行為になる」と言う考えです。法的な例では過去のアメリカでの禁酒法などが挙げられ、最近では引きこもりでしょうか。引きこもりはもともと昔からあって極めて個人的、家庭的な問題でしたが2000年前後から急激に新聞に掲載される頻度が多くなり社会問題化された上、犯罪等とも結びつけて語られるようになってしまいました。
2000年前後といえばそうです。あのグレートティーチャー鬼塚が生徒の家の壁を壊して引きこもりの生徒を「救出」した「GTO」が放映された頃です。
さらに、このラベリング理論から派生した考えに社会的構築主義と言うのがあります。
この考え方は逸脱の考えを社会問題に適用したものです。
彼らは社会問題が素朴に存在するとは考えません。社会問題とは何らかの社会に存在する「ある状況」に対して苦情を申し立てることによって始めて成立する、つまり社会問題とはそうした苦情の申し立て活動そのものであると言うのが社会的構築主義の捉え方です。社会が社会の正当性を保つために自ら社会問題をこしらえるような考えです。
此処まで来ると、そうは言っても貧困とか差別など素朴な社会問題はあるだろうとは思うのですが、昨今のアメリカでの移民問題や中国当局が申し立てる汚染水問題を見ると社会的構築主義者たちの考え方に「その通り!」と思う部分もあります。

ここからは私の感想になりますが、どうも昨今はこうした逸脱や社会問題の定義者の一般化が進んでいるのでは無いかと思っています。
かってはそうした逸脱を定義したり社会問題の存在を申し立てる主体は一握りだったと思います。
政府であったり、新聞であったり、学者や評論家など。
今は割と簡単です。芸能人のスキャンダルやニュースに対して誰でもSNSを通じて「いかなるものか」とか「許されるものではない」とか申し立てることは誰でも出来てしまいます。逆にテレビなどのマスコミもそれを恐れて自粛し、挙句の果てには自ら過度な規範を創って、ついには逸脱を糾弾する側に回ってしまう。先日放映されたテレビ番組「不適切にもほどがある」の世界です。

しかし何でこんな窮屈になったんでしょうね。みんな心の底ではもっとゆる〜く自然な倫理感でやって行きたいと思ってるはずです。
でも現実は、ちょっと喋るのにも気を使う。親切と思ってやったことさえ批判されることもある。
我々みんな、取り巻く規範に押し潰されそうになっているのでは無いですか。
そして、そんな規範で押しつぶされそうな状況から逃れる術はただ一つ。
それは自らが規範を作る側に回ることです。
批判される前に批判してしまう。取り敢えずSNSで見た異議申し立てには乗ってしまう。これで自分は安泰。
そんな感じでしょうか。

しかし、こんなの続きますかね。
ある日突然、みんなが規範を守るのをやめてしまって無道無法に振る舞い出して、まるで映画のマッド・マックスみたいな世の中になってしまう。
確かにこれは極端ですが。

あ、だからあの映画、ヒットするんですね。