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世界は君のもの【我・思・君・思】幽谷霧子の感想

【我・思・君・思】霧子さんが衝撃的すぎたので、自分の中で噛み砕くためのnoteです。
まとめようにもうまい論旨を見つけられなかったのでいつにもましてぐちゃぐちゃです。
読解とか解釈というより、おおむねとっかかりにして広げた与太と妄想です。眠い中書いてるし深く考えてもないのであまり鵜呑みにしないでね。

「何もかも本当にあるのか信じられない世界で、それを疑う私がいることだけは誰にも否定できないのではないか、がデカルトで、何もかも本当にあるのか信じられないけれど、それならば夢も現実もすべてがほんとうで、すべてが同一性のある存在であるとしても問題ない、が霧子と読みました。」

これ、一回しか読まずに数時間後の呟きだったので、きちんと読み返してみたら微妙にずれてる気がして、ぼんやり思ったことの殴り書きします。
微妙にずれてると思ったのは「すべてが同一性のある存在としても問題ない」のあたりです。「問題ない」というよりは「同一性のある存在であると信じている」のほうが近いのかな…この辺ニュアンス難しいな…。

霧子が規定した世界こそが世界

天天白布のコミュによると、霧子は太陽なんですよね。
太陽というのはご存知の通り太陽系の中心に位置していて、地球を含めいくつもの惑星が太陽の周りを回っていて。
今回のコミュにおいても、デカルトでいうところの疑いようのない唯一の存在である主観としての「私」は霧子にあって、霧子の周りをただようすべて、咲耶やみんなや夏は「この」がつけて語られる。
この、というのはいくつかある存在の中から断定するために必要な言葉で、霧子は同一でない咲耶さんや同一でないみんながいることもたぶん理解している。
それでも咲耶は「また会おう…すぐに」というし、霧子も「この咲耶さんに」おはようをするという。

「この」という指示語は話し手に近い物事を指すときに使われる言葉だ。この、は自分の範囲のもののときに使われて、その、は相手側の領域にあるものごとを指す。
つまり「この咲耶さん」は霧子の範囲にある咲耶さんで、霧子の主観における咲耶さんになる。

主観において、久しぶりに会った友達が果たして本当に過去の友達から地続きの存在であるのか、一貫性を持っているのかは誰にも計り知ることができない。
スワンプマンやテセウスの船みたいな形で入れ替わっているかもしれないし、そもそも夢の中に友達が出てきたとして、起きているときの相手が別の人であると思うのが普通だ。

でも霧子は眠るのか起きるのか、とにかくいまと異なる世界に向かうにもかかわらず、その先にいる咲耶や、みんなや、世界全体の同一性を認めた。
次の世界でも変わらない「この」咲耶におはようを告げると言った。
それは到底不可能なことのように思えるけれど、世界の中心である霧子がそれを担保する限り、霧子の世界においてそれは保たれるのかもしれない。
霧子はハルヒなんですよ!とか言いたくなる。そんなことはない。

我思う、ゆえに我あり。君思う、ゆえに君あり。

君思う、が「私が君を思うから君がある」なのか「私が思うから私があるように、君自身が思うから君がある」のか微妙なところだな…と思っている。
個人的にはどこまでも霧子の主観の話だと思っているので前者だと嬉しいな。

おやすみ、デカルトさん

「私」以外をすべて疑ったデカルトを、霧子は「不思議な人」だと言った。そう思うと、霧子は「すべてを疑わない」人なのかもしれない。
目の前にある「ここ」が霧子にとっての世界で、それが夢だろうと現実だろうと幻だろうと走馬灯だろうと、その異なるいくつもの目の前の世界に同一性があろうとなかろうと、いまいる「ここ」が世界。それを疑わない。
だから「ここ」が夢だろうと現実だろうと、どうでもいい。
霧子が願うのは、「みんながみんなでいてくれること」「この夏がこの夏であること」だけ。
その担保がめちゃくちゃ難しいんですけど、この世界は霧子の主観なので、霧子がそうだとするならばすべてそうなので問題ないんでしょう。

デカルトに「私以外の存在は証明できない!」って言われても「目の前にあること」を肯定する霧子にはあんまり響かない。だからデカルトさんも一緒に寝ましょう、という。そうしてデカルトも霧子の世界の一部になる。
霧子の世界では過去の人物も今の人物も未来の人物も関係がなく、きっと等しく、「ここ」にいる人なのだ。

まあでも、色々書いてきたのですが、このコミュシンプルに「夢でも現実でもみんなといられれば嬉しいよ」って愛の話なんだと思います。まる。

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