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小説『エミリーキャット』第21章・幻惑ドライブ再び

『運転手さんとエミリーってどういう関係なの?
エミリーは深夜でも来てくれる馴染みの運転手さんだって言ってたけど』
『おら、エミリーさん、いや、エミリーちゃんがまだこんまい時からよぉく知ってるだ、
そりゃそりゃあ、可愛らしかったからなぁまるで西洋のなんてぇの?
ビスクドールってぇの?
いやいや、あんなものよりもっとずっと、お茶目で活発で生き生きとしてて...
綺麗で可愛らしかったよう、
森の中で遊ぶ姿は本当に、童話に出てくる森の妖精のようだったな』


彩はふと夢の中の白いドレス姿の少女が思い浮かび、それを振り払うように頭を左右に振った。
どこまでも続くかのようだった無人のハイウェイは途切れ、いつの間にか見覚えのある都市部の高速道路を走っていた。
『リアルな夢ねぇ…
でもお陰でさっき見た怖い夢のダメージが和らぐ感じがする…。』
TSUTAYAの前で今時珍しい大きなやや、育ち過ぎた感のあるシベリアンハスキーを連れた小柄な中年の男性が立っていると、恐らくお目当ての映画を幾つか借りてきたのだろう、男性のパートナーらしき彼より5、6歳は軽く年上風に見える女性が嬉しそうに駆け寄って来た。
犬は喜んで女性に飛び付きそうになったが男性がリードを引き寄せ、優しくそれを制した。
『ピーターラビット借りてきた!』
明るく溌剌と弾むような女性の声が聴こえてきた。
『えーそんなの借りたの?』
と男性が小声で眉をひそめると、
『あら!貴方のお目当てのも、ちゃんと借りてきたわよ、えぇっと?
ミッションインポッシブルの最新作、』
『バッカだなぁ、もう新作借りたのぉ?
新作はまだ借りなくていいんだよう、そのひとつ前のでよかったのに』
『いいのよ明日は貴方の誕生日でしょう?でも明日は私が夜勤だから、これはささやかな私からのお誕生日プレゼント』
『えーマジで?いいの??
だって今日はすっごくご馳走作って
くれるんだろう?俺、それだけで充分なのに』
『あーら私の再来月のお誕生日には指輪買ってもらうんだから、せめてこれくらいはしなくっちゃ』
『あちゃーそうだった、でも仕方無いな、だってふたりで選ぶエンゲージリングだもんね!』
『タロウ帰ろ、タロウにも美味しいお肉買ってあるんだから』
長身で筋骨逞しいバレーボール選手のような体型の女性はそう言うと、嬉しそうに小柄で華奢な中学生のような、中年男性の腕に大きな軆(からだ)を傾(かし)いでぶら下がるようにして腕をからめ、ふたりは仲睦まじく遊歩道を歩いて行った。
さかんに尻尾をふる肥り肉(じし)のハスキー犬は、そんなふたりと共に歩きながら嬉しくてたまらないといった様子で、後ろから見ていると尻尾を振っているのか巨きなお尻を振っているのか解らないほどだった。
“外を歩く人間の会話がここまで仔細に聴こえるだなんて、さすがに夢の中だけあるな”と思いながらも彩は幸せそうなふたりの会話に癒された。
と同時に胸を一瞬貫くような寂しさと虚しさが冷たい風のように吹き抜けていった。
『あのふたりだってああなるまでに、そうとうな困難や弊害がいっぺいあっただよう、
だけど世の中には愛を貫(つらぬ)くか貫けないか、人によって様々だから泥沼化して悲惨な終わりかたをする恋人達も沢山いる、


あの人達だって、男のほうは特に胃を切って取っちまうくらいの苦しい試練を乗り越えてきたんだ。
だから見ろよ?
まるで鉛筆か人間か区別がつかないみたいじゃないか?
女の人のほうもそうさ、ストレスからだろうな、まだ四十路になるか、ならないかで閉経しちまって、
子供なんてもう望めない躰になっちまった…。
自業自得だとかバチが当たったなどと言った輩(やから)も居たが、本当に恥知らずなのはそういう言葉を、人に平気で浴びせたりする連中だよ、
そのせいであの女の人は重い鬱病まで併発して、一事はノイローゼのようになって入退院を繰り返していた…。


それだけ自分や自分達を責めたんだろうな…申し訳ないって…それでもどうしようもない…申し訳無いって…でもごめんなさい、この気持ちだけはどうしようもないって…。
その終わりの無い連鎖の中でどれだけ彼らが苦しみ悩んだことか、
でも周囲から見たら、あの女の人はとんでもない悪女で、男のほうも酷いヤツだと世間からは白眼視されているのさ、
まるで彼らにはそれ以外のものは、なんにも無いかのように思われている。
本人達もまた半死半生になって、
それでも遠くの街へふたりして逃げるようにして、家族で男性だけが大切にしていたあの犬だけ連れて、
ふたりだけで新しい人生を1からやり直してる…。
俺はね、世間からどう言われていようが愛にはいろんな形があることはどうしようもない時があるんだと思うんだ、
理屈や道徳心だけでは割り切れない人間だけの…様々な形がね…
それが人間の証しなのかな、
悲しいけれどその証しで苦しまない人は世の中居ないよ、
彼らの周りの人間も傷つけるのは当然だが、彼らもまた傷つかないわけじゃない、世の中からはただひたすら純然たる悪役にされてしまっちゃいるがな、
だけど本当のとこ、いろんな深いことを俺たちゃなんにも知らねえで、ああだこうだ非難して当事者を白い目で見て叩くなんて真似は、俺はかなり恥知らずな真似だと思うんだ。だってそれは当事者よりもっと闘ってないし、現実に直面もしてないし、何より全くの無関係なのに口だけ出してる、
そうやって日頃の退屈で虚しくて淋しい自分をまぎらわしたり、溜飲下げたりしてちょっとばっかし英雄になったかのようないい気持ちになってスカッとするんだとしたら、本当に薄っぺらくてツマンナイなんにもない人生なんだなぁと思うよ、
ただ生きる屍みたいに生きてるだけの連中なんだなぁとおらなんかは心が狭いからついそう思っちまぁ…

だってなんにもしないで口だけ出す外野の好奇心から出る親切を装おった偽善も、汚い罵詈雑言も、どっちも彼らのように胃を半分取る想いも経験もなぁんもしてねぇんだから、
どっちも道端に痰唾吐くくらい安易なもんだと思うからさ』
彩は遠ざかる犬を連れた幸せそうな中年のカップルを見送りながら、言った。
『…あの人達…不倫だったの?』
『そうだな…
ふたりとも裕福な安定した仕事も家庭もあった、
だけどふたり共、壮絶なことをふたりでなければ乗り越えられないことを乗りこえてきたんだ、
ふたりは社会的な制裁をきっちりと受けたよ、
お金もだし第一男は長年勤めてきた役所をクビになったし、女性も長年勤めてきた病院での婦長という立場も全てのキャリアを失った。
だからふたりして遠くへ移り住み、そこから自分達の罪の償いをしながら、今新しい人生を彼らなりに慎ましく生きている、
だけどそれを我々がなんで非難なんか出来るだろう?


あの人達のご家族はそりゃあ可哀想だった、
いちばんの被害者だ。
それに間違いは無い、
だが…加害者といえる彼らが決して苦しまなかったと云えるだろうか?加害者だからこそ…
人一倍自分達を責め、それでもお互い愛し合うことを止めることが出来なかった…そんな人達を世の中の人々は袋叩きにしたんだよ、
みんなでよってたかってね


なんの関係も無い近所の野次馬や、親類縁者、同じ街の住民で一廉(ひとかど)の噂を聴いて知った積もりになっただけの見知らぬ人間までもが、いかにも正義感でそうしているかのようにだ。
でも彼らはそれらを甘んじて受け入れてきたんだ。
そうやってこれからも生きてゆくのがせめてもの償いだと彼らなりに努めて生きているというのに、未だ鞭打つ人々がいる。
いっそのことそんな自分の愚かさ、狭(せま)さを打てばいいのに、』
『……』
彩は流れる窓外を見つめたまま黙って聴いていた。


『だってさぁ天使じゃないんだ、
俺たちは…』
『……』
『そういう人生もあるんだって、
自分達とは違う人生もあるんだって…
ただそれだけのことさぁ…
人間いつもいつも正解を生きられるわけじゃない、誤っても生き続けるしかないし、
誤ってももしかしたらそれが正解かもしれない時だってある、
またその反対もある、
勧善懲悪の映画のように人間は真っ二つに割って、どちらが善いか悪いかなんてそんなに単純明快にはゆかないからみんな悩むのに』
次々と流れゆく窓外のネオンが、玉虫色に光る液体状のさながら水時計の中にある、あのたっぷりと豊かに彩られたしなやかな油膜のように、彩の泣き顔の上をガラス越しに幾重にも過(よぎ)っては流れ、過ってはまた流れ過ぎていった。
『あの人達はその後も、十字架を背負いながらそれを自覚しつつ、生きてゆくんだ、それを更に神様でもねえのに鞭打つなんて真似は、誰もしちゃなんねぇのさ』
彩は流れゆく窓外の都会の彩りに目を閉じると、心の中で呟いた。
『同じ不倫でも私は彼らの足元にも及ばない、
なんて恥ずかしいの…
私はなんの責任も負わず、ただ自分を傷つけ自分の人生も傷つけ、
他人を傷つけ他人の人生も傷つけ、
多くの犠牲を出しただけに過ぎない、そして人として人を愛した証しである自分の命より大切な命までをも彼に頼まれるままに流されて殺(あや)めてしまった、
それに対して私はなんの償いも出来てなどいない、その為に今後私は生きてゆくのだと誓いはしたけれど…
一体私が何をしているというのか?婚約までして我欲の為に生きて、
それに向かってただ毎日忙殺と共に息切れを感じながら生きているだけだ、償いも何も私にはそんな清いような言葉を口にする資格も無いんだわ、だって私は鬼になってしまったんですもの、』
彩は運転手に気づかれないように、そっと涙を拭って嗚咽を飲み込むようにして耐えた。

『…』今度は熟年の女性と男性の群れが固まって道路脇を揃ってさながらレミングの群れのように連なって歩いていた。
よく見ると先頭を切って歩いている女は人間ではなく、まるで日本猿が茶髪のカツラをかぶってスカートを無理矢理掃いているように見える。
他の連中も皆、揃いも揃って人間ではない。
『あれ一体なんなの?お化けの集団か居るわ』


『あーあれはね』と運転手、
『福祉施設の所長さんと、あとはそのバックにつく行政の連中だな』
『えっ福祉と行政ですって?
そんなはずないでしょう?
だってあれはどう見ても人間じゃないわよ?』
『そう、だからだよ、だからあんなバケモンの姿に我々からは見えるのさ』


『どうして?』
『森の影響をオネエチャンはまだ受けてるんだ、だから世の中の人達の真の姿がオネエチャンには今見えるんだな、
あの森はそういう特別な力を持った森だから普通の人はなかなか入れないんだがオネエチャン、いや彩ちゃんはあの森のほうで彩ちゃんを認めたんだな、』『森に認められた?私が?』
『んだぁ、でなければ普通あの森すら見えないし、入ることすら出来やしないんだから』
『あのさっきのカップルのうち、
ひとりは確かもっと若くて、
お互いまだ知り合ってなかった頃に、あの森のエミリーさんの家に来たことがあったっけかなぁ』


『えっ本当に?』
『うん、
それよりも不思議だと思わねえか?あのふたりは不貞と呼ばれることさして結ばれたふたりだが、ちゃんと人間の姿に見えていたのに、福祉の所長さん達は野猿(のざる)がカツラかぶって趣味の悪いイタいお洋服、着てるようにしか見えない、
映画の猿の惑星に出てくる猿のほうがずぅっと上品だと思わねえか?』


『そういえばまぁ、そうね、
何故、人の道を外れたことをした人達が人に見えるのに、ちゃんとした福祉や行政のひと達がまるでお化けのような姿に見えるのかが不思議でならないわ、
だって普通、逆じゃない?
福祉で日々人の為に身を粉にして努(つと)めている人々こそ人間の鑑(かがみ)なはずでしょう?
それに比べたら彼らなんて過ちを犯した罪人(つみびと)にしか過ぎないわ』


『…確かに罪人だぁ、それは間違いがねえ、だけど罪人もいろいろあんだよ、なにも不倫した人間だけが罪人ってわけじゃねぇ、
あの福祉施設の所長さんは施設に通所する障害の重い人に対してまぁ酷い虐めをしたんだよう、そういう身寄りも誰も居ない為に何か起こっても誰も庇(かば)ってくれるような後ろ楯が無いことちゃあんと見越した上で、まぁ惨(むご)い真似したんだよう、


何が汚ないかってその虐めやなんやかやはしょせん自分の所長だ、担当だ、係長だ課長だって特権活かして行うことなんだから、そこいらの八百屋のオヤジがするイジワルなんかとは影響力の質に雲泥の差があらぁな、
散々自分とは対等じゃない独りぽっちの人間陰で泣かしといて、その人の障害が重かろうが普通の人と同様の罰を与えて泣き寝入りさせてしまう、だが本当のこと言うと、罰を食らうのは障害もなんも無くて酷い真似してなんの気づきも得ないまま恬(てん)としてる偉いさん達のほうであるべきなのに社会はそんな風には出来ていやしないからな、
あいつら自分の所長だの課長だのといった充分に社会的には権力となり得るただでさえ強い立場にものを言わせて抑えつけるみたいなことをして、障害のある人や身寄りがなくても頑張ってる人達の夢や希望や沢山の声や悲鳴までをも、捻(ね)じ伏せたり挙げ句、無かったことのように葬ってきたんだ。
そうすることが堂々、出来る特権に彼らはついているんだから特権なんか持たない人間はまるで同じ人間じゃないかみたいに扱われても、それはこの国ではまだ当然のこととして認められるんだ。
どんなに悔しくても弱い立場にいる人間は泣き寝入りをするだけだ、
泣き寝入りをさせた偉いさん達は相も変わらずお互いに『先生』と呼び合って、もたれ合い体質そのものさ、
群れ集って穢(きたな)い庇(かば)い合いをして口裏を合わせながら、その座に安住し続ける。
連中にしてみりゃ万事、バレたら問題、だけど“バレなきゃいい''のさ、


どんな酷いことを実は陰でしていても、なんのペナルティも受けずに、のうのうと暮らし続けることが彼らには可能なんだ。
残念じゃあるが世の中そういう風に出来てるんだな、あのお婆ちゃんだってさ、
最初は保母さんで、それ辞めて福祉施設を立ち上げた頃は正義感や理想に燃えていたけれど、段々時が移ろうに連れて、所長って立場の権力が持つ旨味(うまみ)に馴れてきちゃったんだな、
先生とか呼ばれる人種はどっか無自覚に傲慢になってんくもんなんだな、


人の気持ちや、人が命のように大切にしていることを引き換えにして、言うことを無理矢理聞かせたり、
相手がとても大切に思っていることをまるで人質にするような言動を人知れずとったり、時にはライフラインを引き換えに脅したり…
最初の彼女はそんなこと考えつきもしない心優しい女性だったのに…
いつの間にか彼女が時と共に覚えた権力の旨味は自分が持つ所長って肩書きの普通の人では絶対太刀打ち出来ない強い力だよ
つまり権力そのものだ。


これにもの言わせる、つまり実力行使されたら相手の小さな望みも、『やめて』という悲鳴すらも、ペラペラのトイレットペーパーみたいに簡単に目の前から一気に流して無きものにしてしまえるし、それにより相手が後々酷く苦しみ、のたうち回るほどの状況に追い込まれ下手すれば死ぬかもしれない苦しみに独りで置かれることになろうが、彼女にはそんなことは別にお構い無しさ、
後は野となれ山となれだ。
福祉施設の所長さんといえばいかにも聴こえはいいが、あの人、歳の数だけずいぶん沢山の人の恨みつらみ買ってるぜ、
それだけ長年沢山の人、権力で抑えつけてねじ伏せて、泣かせてきたからな、
自分が沢山の人から恨まれてることも嫌われてることも気がついてはいるが、それは相手の受け止め方が悪いと思ってる、
相手と対等ではない遥か上の立場から自分がふるってきた力は、では果たして暴力ではなかったのか?
あの人は気づいていないんだよ、
というより自覚しようとしない、
したくない、
あくまで間違っているのは自分より下の立場の人であって、特権者の自分じゃない
『言うこと聴かないならあれを取り上げようか?』
『奪おうか?』
なんて自分の意に染まぬ通所者には物凄く強力な圧政者となり、驚くほど懲罰的にもなる、
それが対等な立場同士なら、まだしもそうでない人達が、その強い立場からすることなんだから本当は恥ずかしいことなんだよ、
あの所長さんもだが、その隣や後ろについている熟年層の灰色のレミングみたいに連なってぞろぞろ徒党成して歩いてくる福祉だ、お役所だの連中、みんなで組んでつるんで、
たった独りの障害の重い人間を複数で潰したんだから汚ないもんさ、
そりゃあ人間の姿に見えなくて、
まるで妖怪みたいに見えちまうのは自然の道理ってもんだろうよ。』


『そうなのね…
じゃあ昼間違う日に、もしあの人達と逢ってもきっともう誰だか解らないわね、昼間は普通の人間に見えるでしょうから、』
『そうだなぁでもなんとなく名残りはあるからうっすらとは解るかもしんねぇよ、あの所長さんはそんな権力にもの言わせるような真似してるから神様から"お前は本当に巧妙なイジワルをするね"て神様の筆でペケ印を墨でつけられてるからさ、
ほれここいら辺りにね』
タクシーがその灰色レミングのグループの傍を通り抜ける時、ゆっくりと時間が過ぎるような気がした。
運転手が話す間中、ずっと外の風景はスローモーションで動いていたが福祉所長とお役所の一団の傍を通り過ぎるその一瞬は更にゆっくりと時を一瞬止めるかのようにして、同時にタクシーは疾走もしているという奇妙な現象の中で彩は遊歩道を歩く人々を車の中とは思えぬほど間近に見た。

所長という女性は還暦はとうに過ぎ七十に手が届くかに見えたが、中学生のような色とりどりのぬいぐるみを沢山ぶら下げたバッグを持ち、フリルの甘い洋服や光り物の小鰭のようなスニーカーを履いていた。 
年齢に関係無く、そのような格好が板についたようにごく自然と似合う人も居る。
それは男女関係無く若造りとは違うものだ。
まるでパーソナルカラーならぬパーソナルスタイルのようになんの苦もなくそのようなスタイルを我が物にすんなりと出来る人達も居るが、
その場合どちらかといえば若々しく見える中にもごくプレーンな品性が必ずある。
少なくとも過剰に飾り立てたり、下品には陥らない。
その女性は自分に何かが起こると震(ふる)うべく権力の旨味(うまみ)を知っている人間に漂う独特の『醜い強さ』を無自覚に近い中で、うっすらと気がついていて、それを隠そうとするあまり、つい過度な可愛らしさを求める権力者特有の擬態(ぎたい)を好む癖(へき)があった。
その擬態とは人によっては悪趣味な成金じみたゴージャスだったり、
ロックスターのようにクールに見られたい趣味やスタイルで身を包むことだったりもする。
あるいは高校生でも厭うような目も当てられないパフスリーブの服や、人形やぬいぐるみを沢山自分自身のあちらこちらにぶら下げるような痛々しい姿で、周りにその無理無体な可憐さを強調し、眉間に深く折り込まれた縦じわの強面(こわもて)という現実を打ち消そうと過剰な尽力をしてしまうタイプとに分かれる。
弱者への圧制をステップに生きることを自らに許した権力者は、単に己(おのれ)に刻まれた年齢の刻印などという誰にでもある、ごくありふれた自然現象とは明らかに違う、特有の“厳(いか)めしさ''となって残るのだ。


どんなに明るさ、柔和さを装っても隠し切れない人としての卑劣な臭いのような気配がある。
どんな努力もそれを隠すことは出来ない。
タクシーで通りすがるその時に、彩は所長という女性の細い切り傷のような目が重くかぶさった分厚い瞼(まぶた)の下、黄色っぽく濁り、狡(ずる)そうな光りを宿しているのが見てとれた。
またこめかみにしっかりと墨で黒々とペケ印が書かれてあるのを見て彩は『あらあら、あれがそうなの?』
と言ってしまった。
『昼間見てもあれは見る人によっちゃあその意味がはっきりと解るもんなんだ』
『昼間逢ってみたいもんだわね』『逢ってもあーこの人だなって彩ちゃんには解るかもしんねぇもんな?彩ちゃん鋭いから』
『周りの人達もみんなまるでお化けみたいね、
あら山羊みたいな顔でツノまでついてる人もいる、あら緑色の顔で口から蛇みたいな先の割れた細長い舌を口からチョロチョロ出しながら何かを話してるスーツの男性もいるわ、気味が悪いわね、所長さんに耳打ちしている手には鱗(うろこ)まであるわ』


『あいつは自分の立場のもつ権力を間違った使い方をしていることに一生気づかないまんま終わる輩なんだ、
だからほれ、蛇男にしか見えねぇんだよ、野猿女に蛇男、
その後ろ狸(たぬき)男に猿にかしずく猿の群れが少量おろう?
まぁ連中はしょうがねぇわな、
本当にあったこと知らねえで所長のいうことだけ信じて偏(かたよ)った世界で生きてゆくしか選択肢が無い下の立場の人間だから、真実を知ったらさぞかしおったまげるこったろうよ』


『あのこめかみにあるペケ印は一体どんな風に現実の世界では見えるのかしらね』
『さぁてね、エミリーさんもあの輩(やから)には散々いたぶられたから、おら、あの連中は好きじゃないんでね、見るだけで吐き気がすらあ』
『エミリーが!?』
『おっとまた余計なことを…
ちょっくら口がすべっちまったな、そんなことより俺が言いたいのは人間、業が深いのはお互い様さぁ、
だけどそれに対して自覚があるか、無いかで人は違うと思うんだ、
今の所長さんや役所の偉いさん達は、人の人生を変えるほど酷い真似しておいてあくまでも無自覚、
そしていろんなことを仲間内のナァナァなもたれ合い体質で共有化して更にはソコから巧みに正当化まで持ってゆく、
そりゃあ連中、図太くてメンタルが病むなんてことには死んだってならない、
病むのは弱い他の人達で、正しい自分達ではないと信じ切っているんだからな、』


『…病む人のほうが自覚があるとでも言っているみたいね』
『無論、人にもよるさぁ、
病む人だって病まない人と同じで、みんな人それぞれだもの』
『…』
『だけどあくまでも気づきを得ない無自覚のまま、ああやって一見、栄え続けるような人々より自分の犯した罪や間違いに耐え兼ねる想いで日々生きてそれでも押し潰されて、病みの果てで、それと闘いながら生きて…その償いをいつか世の中へ還そう、それが一体なんなのか自分でもよく解らないままに日々そう想い、願い続けながら息も絶え絶えな気持ちで生きている、そんな人々のほうが無自覚で恬(てん)として生きているツラの皮の厚い人種より俺はずっと好ましいと思うんだがね』
『…』
『だから彩ちゃんは、俺には野猿女にも山羊男にも蛇男にも見えねぇんだ、綺麗な色白のオネエチャンがずっと後部座席に座ってるとしか見えないんだな』


『私…とても酷いこと。
したのよ』
『俺も昔、酷い真似をしてしまったことがあったよ、
俺だって罪人だ、
だけどそれは多かれ少なかれ人はみな罪を犯しているだなんて十把一絡げにして曖昧にお茶を濁すような一般論を説いてるわけじゃねぇ積もりだよ、
そんなこといってケムに巻くなんて狡(ずる)いこたしたくねぇんだ、
悪いこた悪いんだから、
だがね彩ちゃん、
そのことを自覚するか、
あれやこれやで正当化して、その正当化を隠れ蓑(みの)にこれからも全く恥じずに恬然(てんぜん)と生き続けるかで、その人のこれからは決まると思うんだよ、
罪を犯したからといってもうこれからが無いだなんて、そこまで自分で自分を虐めちゃダメさぁ』
『…』
『彩ちゃん、彩ちゃんは素敵な女性だよぅキラキラした瞳をしてる、
そのキラキラを自ら削るほど自分を責め過ぎたり追い込んだりしちゃ駄目だ、もう充分彩ちゃん、苦しんだ、もうこれ以上苦しむ必要なんて無いんだから』
『…』
『幸せになっていいんだよ?
彩ちゃん』

『…』
涙が溢れてくるのを思わずいつもの癖でこらえそうになると、同時に船唄が流れてきたが彩は鼻をすすりながらこっそり笑って思った。
『まぁいいか、うちにつくまで運転手さんの好きな歌に付き合ってあげても』
船唄が終わって次にピアノソロの曲が流れてきた。
『…この曲聴いたことあるけど、誰の曲か解らないわ』
『俺も解らねえの、この曲、聴いてたらなんとなく憂鬱になるべ?
だけどただ単に憂鬱になるのとは違ってなんてぇのか、
まるで違う次元の世界を日常的なごく普通の扉の陰から偶然、垣間見てしまったみたいな…


そんな世界を見てしまった者だけが感じる悲しみや虚しさや背徳感みたいなものすら、おらこの曲からは受けるんだなぁ…だからおらこの曲はちょっくら苦手なんだわ』
『怖い感じもちょっとするわね』『うん、聴きようによっちゃあ不穏な感じもするよな?
この曲、辛い時エミリーさんがよく弾く曲の1つなんだ』
『エミリーが?エミリーピアノ弾くの?』と彩は驚いて声が1オクターブ高くなった。
『ああ、いろんな曲を弾いちゃ孤独を紛(まぎ)らわしているものの、
紛れ切れない時が辛いとよく言っていたよ』
『…』


エミリーがよく弾くというピアノの調べに耳を傾けるうち、彩はいつの間にか眠りに落ちていた。
今度は夢を見ない浅い眠りだったとみえ、ガクッと一段階段を踏み外すような感覚で、彼女は何かにすがろうとするかのように思わず脚を動かすようにしてはっと目覚めた。
目覚めた途端、彩は悲鳴をあげそうになりそれに耐えて彼女はその悲鳴を飲み込んで呼吸を止めて周りを見た。
そして彼女は心の中で思った。
『ウソ!ウソ!ウソ!』
何故ならそこはバスの中だった。
彩は凍りついたようにバスのシートに座ったまま、
バスの座席に座ったまま、
後ろのほうに座る彼女を全員で振り返るようにして凝視する乗客達を見つめ返した。


彼らは顔色悪く瞳は小さく絞られたような黒点で広すぎる白目は燃えるような橙(だいだい)色で、それはさながら猛禽類(もうきんるい)の眼のようだった。
人々は派手な花のレイを首から下げたり、シェイクスピアの肖像画のようなアコーディオンギャザーの鬱陶しいような立ち衿の服を着ていたり、似合いもしないバレエのチュチュ姿の禿(は)げ頭に異常に爪先の尖った革靴の先端に鈴の付いた自分の足より遥かに大きな革靴を履いていたり、燕尾服を着て銀色の長い長い爪の先で床に置いた水煙管(みずぎせる)を摘まんで吸いながら、こちらを見つめている、痩せ過ぎて骨と皮だけの枯れ木のような女性もいる。


みんな酷く驚いたような、何かを一心に希求しているかのような、怯えているかのような、それでいて何かを訴えているかのような、あるいはその反対で何も無くて、ただ、がらんどうの瞳で生まれて初めて見る異邦人を見るかのような眼で、このバスの闖入者である彩を見つめているだけなのか、
全くその本意が解らない眼と顔つきで、乗客達は彩を息を止めて見守っていたが、バスの運転手がこう言ったのを汐(しお)に乗客は一斉に前を向き、その為、彼らの後頭部が見えたが彼らはピエロや翁や鬼やひょっとこ、お多福、あらゆる国の首相や総理大臣の顔の仮面を後頭部につけていた為、今度は仮面の顔が一斉に彩を振り返って、彼女を凝視することとなった。
『もうすぐこのバスに乗って60分を過ぎて、70分と80秒過ぎます。
要するに最終ですが、誰か降りる人は居ますか?』
そういうとまた、後頭部に仮面をつけた顔色の悪い鷹や梟(ふくろう)やミミズクのような金色や橙色の眼をした人々は一斉に大きな耳飾りなどの音を立てながら、一糸乱れぬ動きで彩を振り向いた。


『…えっ…』
と、彩は固まりながらも
『…誰かあのう…運転手さんをご存知ないですか?』
『運転手?』
とバスの運転席から運転手がこちらを大きく振り向いて
『運転手はわたしですが?』
運転手はどこにでも居そうな特徴というものを綺麗さっぱり消し去ってしまったような顔つきの男だった。
『いえ貴方じゃなくて、あのう…タクシーの…』
『タクシー?ここはバスの中ですよ、』
『…』
彩は更に固まって動けなくなった。
『それとも誰かここにタクシーの運転手さんは居ますか?』
不気味だが非常に温和(おとな)しい乗客達は皆、一斉にゆっくりとかぶりを振った。
引きつった頬で無理矢理微笑もうと努める彩を飛び上がらせたのはピンポーンという勝手に彩の耳元で鳴った乗客用のベルの音だった。
『お客さん降りるんでしょう?
だってここ、最終ですよ』
『は、はい、お、降ります、降ります!』
と言って彩は怯々と震える指先でバッグを持つと、慌ただしく滑落(かつらく)するような勢いでバスのステップを駆け降りた。

バスはいつの間にか、また立ち込め始めていた赤紫の霧の中、立ち去って行った。
遠ざかるバスのリアウィンドウにあのマスカレード帰りのような不気味な乗客達は皆、一斉に紫陽花(あじさい)の額のように群がり、彩を凝視したその顔をリアウィンドウに張り付けたままバスは遠ざかろうとしていた。
が、次の瞬間彩は気がついてあっと声をあげた。
その紫陽花の額の中の1つにタクシーの運転手が居て、まるでおーいとでも言わんばかりに陽気に手を降っているのが見えたからだ。
『ひどぉい!ひどいわ!
私をこんなとこに独り、置いてゆくだなんて』
彩は思わず心細さに涙ぐみ、指先で目元を拭おうとしたその手を見て更に彼女は驚愕した。
彼女は歯ブラシを握って洗面台の鏡の前に居たからだ。
『えっ』
と彩は鏡に映ったパジャマ姿の自分を見て思わずたじろいだが、そこは間違いなく自分の住むマンションの見慣れた洗面所だった。


(To be continued…)



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