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上羽田村離檀顛末記

天歩十一年十月。上羽田村の神主、束田中膳は檀那寺より齎された位牌を力任せに引き裂いた。記されていたのは先日没した中膳の母の戒名"田孝不忠信女"――凡そ戒名に相応しくない"不忠"の二文字が、中膳を激怒せしめた。

予てより中膳は神主が僧侶に頭を下げねば葬儀を出せぬということが気に喰わなかった。こちらは神、あちらは仏、拝む相手がまるで違う。やれ習合だ、垂迹だのと嘯くものもいるが、あれは仏道を早く広めるための方便に過ぎない。そも檀那寺の坊主どもは般若湯と言って酒を呷り女犯をし、邪淫放蕩を極めている。あのような売僧どもにわざわざ頭を下げるなど度し難いにもほどがあった。

檀那寺との確執はこれが初めてではない。神主の一族というものは何かと徒な剃髪の強要や付届けの加増などを求められるという嫌がらせを受けてきた。寺社奉行に神道自裁による葬儀の許しを願い出たものの、寺請制度は基督教排斥のためにかの東照大権現が直々に行ったもの。離檀を易々と許可できるものではなく、檀那寺とよく話し合えというなあなあの回答を寄越すだけだった。その陰で檀那寺は益々図に乗り、破戒放埓を尽くしている。最早我慢もここまでであった。

「しかし、中膳」

その怒りを見咎めた、同じく上羽田村の堀田古鉄が諌めるように言う。

「弔わねば、起き上がるぞ」

神主が古くから涙を呑んで檀那寺に頭を下げてきた理由は、まさしくそれであった。死人は弔わねば、起き上がる。葬儀の金を出せねなかった流人などが、起き上がった親兄弟の亡骸に食い殺されるなどは珍しいことではなかった。

中膳はこれを一笑に付す。

「生臭どもが経を上げたところで、何の有難みがあろう。弔うことと起上りに繋がりはない、むしろそれを明かすことこそ肝要」

そして中膳は、元は位牌だった白木の破片を手に母の亡骸へと対峙する。

神仏判然令より遡ること二十八年。後に"屍遊病"と呼ばれる病の根絶は、こうして幕を開けた。(続く/800文字)

甲冑積立金にします。