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執筆日記㉓ なにこれだっさ

少し煮詰まったというか、なんか違うような予感がしたので、18日ほど書くのをストップしていた。
今日久々に本文を読み返してみると、定番の感想ではあるが、自分の書いた本文が幼く思えた。
幼くて、稚拙で、なんだか読むのが怠い感じがした。

今noteで連載している「楓」に対しても全く同じ感想を抱く。
投稿する度、本文が目に入って「なにこれだっさ」と思う。
良い箇所もたまにはあるのだけど、大概、この文末からこの展開は雑。とか、これは煮詰まって無理矢理書いてる。とか、そういうのが透けて見える。
特に登場人物が駒になっていて、存在する必然性が弱い。中盤からプロットが先細りしてる。とかなんとか、無限にダメな点が沸いてくる。



沸いてくるのは結構なことだが、それを指摘した自分でまた今日から本文を書いても、結局また未来の自分に「だっさ」と思われるに違いないし、「だっさ」と批評は出来ても、ださくない文章を書くことはできないのである。

実際、これまで7冊を文庫本で作ったけど、全部微妙だと思っている。
そう思っているものを売るのはどうかと思われるかもしれないが、小説というのはそういうものだと思っている。永久に満足することはないと思う。
ただ、あの7冊は当時の自分の全力であることは間違いない。

世の中で売られている商品やサービスだってそうだろう。
企画がスタートして何カ月も準備して販売にこぎつけた時には、既に細かい修正点や課題が山積みになっていて、来季の予算や〆切のことで頭がいっぱいになっていることだろう。

だから、自作は稚拙でも良いと言いたいのではなくて、良いものを作るには否定し続けないといけないと思うのである。
そして、その否定し続けた結果を時々証明・報告する為に、作品という形でピリオドを打たなければならないのだと思う。
飽くまで無限に連続し続ける線の中の位置ポイントに過ぎないというか、中間報告みたいなもので、そう思わないと、一生あーでもないこうでもないと言い続けて死ぬことになる。それはまずい。


たくさん仕事をして上手くいった日、友達と遊んでリフレッシュした日、
今日は楽しかった。と無意識に呟いていたりすることが僕にもある。

小説はそういう軽いけど軽くない本心がしっかり乗ったピリオドを打つ作業だと思う。だから、日本語として上手い表現とか、未来を先どった道徳的な価値観とか、そういうことが小説に書いてある必要はない。
一人の人間が現時点の実力を認めて、これが結果です。と隠さずに言う。そっちの方がよっぽど大事だと思う。これがシンプルなようで難しい。無意識に武装してしまう。



文章には人間性が出る。
対面時と違って読み手には持ち時間が無限にあるので、読み手が汲み取る情報は対面よりも多いのではないかと思っている。

結局、何かを隠そうとすると、別の何かを書くことになり、その別の何かが存在していても違和感がないようにする為に、また別の何かが必要になり、どんどん着ぶくれしていってペーネロペーみたいになってしまう。

なにこれだっさと思うのが怖くて、完成させずに未来という幻想で先延ばしにしたくはない。小説は完結させなければ作者も成長しない。






※ペーネロペーは超カッコよくて僕は大好きです。

小説を書きまくってます。応援してくれると嬉しいです。