2020.6.29

今日は一日気分が良かった。きっと晴れたからだ。

先日のAmazonタイムセールで買ったKindlePaperwhiteが届いた。まだあまり弄っていないので、レビューは明日に回すことにする。これのお陰で結構気楽に読書が出来そうで嬉しい。

今日はひたすらに作業をしていて、正直それ以外何をしたというわけでもない。驚くほどあっという間に一日は終わる。そのくせに疲労だけは溜まる。

Twitterのトレンドに「読書感想文」があった。この手の話題は定期的にバズるのだが、今回は以下のツイートが発端でトレンドに上がったらしい。


学校で課される「読書感想文」は課題としては何が評価されるのか曖昧で、児童生徒にとっては大変困った課題であることは確かだ。私自身困った経験があるし、このツイ―トがこれだけバズっているところを見ると、おそらく今もほとんどの学校で私の時代と大して変わりの無いものとして「読書感想文」が存在しているのだろう。「読書感想文」について私の感じるところを少しだけ記しておきたい。

私の考える「読書感想文」の一番の問題点は前述したとおり「何を評価されるのかさっぱり分からない」ということだ。私の子どもの頃の記憶をたどると「読書感想文」は次のようなものだった。一つは、本を読むことが最も大事で、その証拠資料として感想文を提出するもの。次に考えられるのは、本のテーマに沿った形で独自の想像力を発揮して独創的な文章を書くというもの。これが評価軸の両端であり、この間のどこを取るか、といった具合で私は読書感想文を書いていたように思う。

私が思うに、書くことによる「独創性」とか「自己表現」というのが、「読書感想文」において呪いのように付きまとっているように思う。先のツイート主も「作文は自己表現で本来は楽しいもの」というようなことを言っているところを見ると、この人自身にそういった期待があることがうかがえる。だが実態はというと、「学生は自分がどう思ったかより、先生の好みそうな感想しか書かない」という、独創性とは対極的な振る舞いが蔓延っている。実際私も、自分では全然そんなことを思ってもいないのに、先生が好みそうな感想を書き連ねた記憶だけが強く残っている。

だが、この先生にオベッカを使う態度というのは、児童生徒が望んでやっているというよりも、「独創性を大切にする」というお題目のもとに、課題を出している当の学校が充分な評価の基準を用意できていないからなのではないか。何の縛りも与えられないまま「何でも思ったことを書いていいぞ~~~」と言われても、生徒は何を書いていいのか分からない。そしてそうはいったものの、先生が考える「自由」なんてものは規範に縛られがちなので、先生自身も実は作文をどうやって評価すればいいのかも分からないのではないか(これは勝手な憶測ではあるが)。もちろん、それが出来る先生もいるのかもしれないが、それは稀有な人材だろう。作文に対して自由を期待しておきながら何かしら評価をしなければならないからこそ、先生の「常識」が無意識に評価に影響を及ぼすだろうし、生徒はそれを察知して学校社会から学んだ規範に沿って文章を書くことになる。

生徒達はそもそも、先生の機嫌を取りたいから先生の好きそうな感想を書き、教訓を並べ、自分を反省してみせたりするのだろうか。おそらく、そういった振る舞いをしてしまうのは、それ以外に書くべき「感想」が見当たらないからではないか?少なくとも私はそうだ。確かに、先生の好きそうな言葉を並べれば悪くない成績を貰えるだろうとは思っていたが、他に書くべき内容が無いのだ。感想?何それ?

中学生なんて、本を読んだところで、「へ~」と思うのが関の山。初めて夏目漱石を読んだ時に思い浮かぶ感想なんて、「読みにくい」とか「明治時代ってこんな感じなんだ」とかいうことを言葉にもならない漠とした状態で感じるだけだ。物語のストーリーや人物を咀嚼し、自分の言葉で感想を書くためには、かなりの訓練が必要だ。「読みにくい」や「明治時代ってこんな感じなんだ」という感覚の内実を根拠を示しながら捉えられたなら、それは感想文としてとんでもなく出来の良いものになり得るのだが、そんなことはそうそう出来ない。生徒たちはその術を持っていないし、教わっていない。

「自由」は途端に生徒を不自由にする。課題設定としてはかなりレベルの高いものだ。そのためには、独創性の発揮以前に、「他人に分かるように文章を書く」という技術の習得が不可欠だ。おそらく読書感想文の課題図書が決められているのは、評価する教員も生徒と同じ本を読んだうえで生徒の文章を読むためだろう。

独創性以前に、「読書感想文」を読み手に分かるように書くというそれだけで、かなりのことを生徒は習得しないといけない。たとえば、以下のたられば氏のツイートにあるようなことは、きちんと身についていないと、第三者が読んで分かる感想文というのを書かせることは難しい。

たられば氏がリプライの形で続けているツイートにある通り、こうした技術的指導は「嫌い」と思われてしまうことも想像に容易い。技術的指導はこれまでの「読書感想文」で重視された「自由」とは形が大分違うし、実際窮屈さや難しさを感じるのは当然のことだ。だが、こういった基礎があるからこそ生まれる「自分の考え」や「独自性」というものがあるし、根拠を示して相手に分かりやすくプレゼンするということは、たとえ賞を受賞するような独創性が無かったとしても、公共性の高い能力として、生徒の財産になるはずだ。だからこそ、技術的評価基準というものを、学校にも身につけてもらえたらと思わずにはいられない。

今日はすこし長くなってしまった。

とにかく、すこしでも多くの児童・生徒が本を読むことや、感想を語ること、そして書くことが楽しいと思えるようになることを願ってやまない。

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読書感想文

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