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風を待つ<第5話>女帝の謀略

 何日も止まぬ雨が続いたあと、采女司うねめしが来た。
「文姫さまには、皇子の宮へお移りいただきます」

 すでに夏である。湿気をおびた不快な風が吹いている。飛鳥宮には燦々と日が照りつけ、庭には生ぬるい風と強い日差しが降りそそいでいる。

 ――ようやく皇子の宮へ召されるのか。

 文姫は安堵する。まさか飛鳥宮にこのまま置かれるのではないかと不安だったのだ。白髪の混じった采女司は、出立までに倭国の衣裳へ着替えるように言った。

「皇子の宮までどれくらいかかるのか」
 文姫は采女司に問う。
湯沐邑とうもくゆうまで、輿をつかえば三日ほどでしょう」
「三日も輿に乗るのか……」
 文姫は嘆息する。その横で侍女たちは首を傾げた。

「中大兄皇子の宮は近江大津宮です。湯沐邑とは、どこにあるのでしょうか?」

「なに? そうなのか?」
 湯沐邑も、中大兄皇子の宮なのだろうか。采女司を見ると、皺だらけの顔貌にとまどいの色を見せている。

「湯沐邑は、大海人皇子の宮でございますが……」
「大海人……、私は中大兄皇子に仕えると決まったはずだが」
「はあ」
「手違いであろう。これは皇祖母尊すめみおやのみことと中大兄皇子、が夫の金春秋との間に決まったことじゃ。かならず中大兄皇子の近江大津宮へと私を連れてゆくように。湯沐邑へは行かぬ」
 きつく言い放つと、采女司は「はあ」と気のない返答をして退室していった。

「なにが起きているのか」
 文姫は焦燥として、袖の中で指を動かしている。このような重大なことを手違えるはずはない。これは手違いではなく、まさか本当に大海人皇子の宮へ送ろうとしているのではなかろうか。

 であれば、なにゆえ急に変更をおこなったのか。
 金春秋は知ってのことだろうか。

「文姫さま、いかがいたしましょう。あの采女司では、どうも頼りになりませぬ」
 侍女たちも不安を感じているようで、文姫に訴えかけている。

「殿君は、お戻りになっておるか」
「探してまいります」

 侍女はすぐに飛鳥宮内をまわり、采女たちを捕まえて問い糺《ただ》した。だが、だれ一人として、金春秋の所在を知るものはいなかった。

「だれに問うても、はきとわかりませぬ」
 侍女は狼狽しながら戻ってきた。

「采女どもはまことに知らぬのか、それとも口が堅いのか……どうにも倭国の者たちは、表情が読めませぬ」
「もうよい」
 文姫は立ち上がった。侍女たちの調査を待っていては、宮へ上がる日が来てしまう。そうなる前に、皇祖母尊に問うておきたい。

 どうして中大兄皇子ではなく、大海人皇子に仕えることになったのか。
 大海人皇子との婚姻は、だれの意向であるのか。

「私は、倭王となる者の妻となり、新羅との縁をむすびに来たのだぞ……大海人皇子が次の倭王だというのか?」

 先日の皇祖母尊の言葉がよみがえる。
 ――譲位せねば、中大兄に弑逆されるだけよ。

 皇祖母尊はあきらかに中大兄皇子を嫌っていた。その中大兄皇子に文姫を近づけたくなかったのだろうか。
 
 皇祖母尊に面謁を求めると、皇祖母尊はすぐに文姫を招き入れた。

 さらりとした生絹すずしの衣を着た皇祖母尊は、采女たちに扇をあおがせている。

「どうなされたかな、文姫どの。顔色が悪うございまするぞ」
「婚姻の件です」文姫は皇祖母尊への礼もせず、用件を告げた。

「私は、中大兄皇子にお仕えするものと思うておりました。夫もそのように申し上げたはずです。なにゆえ湯沐邑へ行くこととなったのか、理由をご教示くださいませ」

「はて……」皇祖母尊は、しれっとした表情で、首をかしげる。「金氏は、そなたを皇祖母尊の皇子に、――とおっしゃいましたな」

「そうです。それなのに、大海人皇子にとは、なにゆえですか」
「あれも私の子ですよ」
 皇祖母尊は、ほほと笑った。

「そうかもしれませぬが、酒宴の席で、中大兄皇子と盃を交わしました」
「ええ、ですが中大兄は、そなたを召しませんでしたね」

 皇祖母尊の唇が、うっすらと笑う。

「母といえども、女の好みにまで口を出すわけにはまいりませぬ。酷なようですが、中大兄はそなたを気に入らなかったようです」
「私を気に入らぬと……」

 文姫は継ぐべき言葉を失った。文姫を気に入らぬ、などという男がいるとは想像もしなかった。美女を抱きたいと思うのは、男の性質ではないのか。文姫はおのれの美貌には自信がある。文姫を召してよいといわれて、断る男が存在するとは。

「悲観することはありませぬよ、私にはまだ子がおります。それが大海人です。大海人にそなたの話をしたところ、興味を持ったようでね。妃のひとりに加えてもよいと言ってくれたのじゃ」

 皇祖母尊の言葉は文姫の心をえぐってゆく。

「中大兄には断りを入れてあります。ご安心なされよ」
 中大兄皇子に拒まれた。皇祖母尊に見下げられた。大海人皇子に同情された。これほどまでの屈辱を味わったことがなく、文姫の心は平静を保てなくなっていた。
 視界がぐらりと歪む。侍女が後ろで文姫の身体を支えた。

「おや、おや」
 そんな文姫を見て、皇祖母尊はさらに嘲笑あざわらった。
 皇祖母尊に仕える采女たちもくすくすと笑っている。采女たちは美麗な女ばかりだ。だが、文姫の美しさにはとうてい及ばない。少し美麗なだけの采女たちに嘲笑され、文姫は全身がかっと熱くなった。

 睨むように皇祖母尊を見ると、皇祖母尊は「おお、怖い」と肩をすくめた。
「大海人はまだ若い、そなたをきっと気に入るであろう」

(平静になれ)
 文姫はぎり、と奥歯を噛む。ここで皇祖母尊に暴言を吐くわけにはいかぬと、おのれに言い聞かせる。

 金春秋の意向を聞かねばならなかった。文姫はこのまま、大海人皇子と婚姻してもよいのか。それとも、拒絶するべきなのか。

「夫と相談して、あらためて返答いたします。殿君が戻るまで、入内じゅだいをお待ちいただきたい」
 返ってきた声は、冷たかった。

「金氏と会うことは叶いませぬ」
「な……? なにゆえ夫と会えませぬのか。なにゆえ」

 皇祖母尊は、微笑するだけで答えない。
 眼裏でぱちりと光がはじいた。怒りのために身体から光がほとばしったのだ。皇祖母尊は、金春秋のゆくえを知っている。文姫と会わせぬとはどういうことか。

「まさか……夫を捕らえたのですか」
「まさか、まさか」
 皇祖母尊は、ほほほと笑う。

 文姫ははっきりと確信した。金春秋は皇祖母尊に捕縛されたのだ。そうでなければ、飛鳥宮に滞在する間、文姫に一度も会いに来ぬはずがない。

 迂闊だった。さすがの金春秋とはいえ、文姫にもだれにも行先を告げずに出かけるはずがなかった。捕縛されているとなれば、采女たちのだれに金春秋について問うても、堅く口を閉ざし、語らぬことも納得できる。

 皇祖母尊と采女たちは袖で口元を隠している。くすくすと笑声が絹衣から漏れ聞こえてくる。

「理由もなく新羅の王子を捕縛して、このままですむと思うておられるか……」

「口のききかたに気を付けることじゃな」
 皇祖母尊は言い放つ。
「新羅の王子など、倭国のだれも見ておらぬ。途中の海で遭難したのであろう、と私が言えば、それが真実になるのじゃ」

 耳を疑った。そんなことが許されるものか。怒りふるえる文姫を放擲《ほうてき》し、皇祖母尊は続けた。

「入内は予定どおり執り行う。――ああ、そうそう」皇祖母尊は采女に薄い紙を持たせた。「文姫とは、新羅の呼び名じゃな。大海人の妃となるそなたに、倭名をあたえよう」
 そこには倭語で、名が記されている。

額田王ぬかたのおうじゃ。そなたは今日より、額田王と名乗るがよい」
 采女たちがざわめいた。姓名まで奪う皇祖母尊の行いに驚いたのかと思ったが、どうやら違う。采女たちのささやく声が聞こえてくる。

『亡くなられた寵姫の名を、あの者に与えなさるとは……』

 文姫の背を冷たいものが這ってゆく。
 額田王。亡くなった寵姫。その名を文姫に与える?

『たしかに、額田王によく似ておられますものね』

 似ている。私が?
 亡くなった寵姫に?

 皇祖母尊は采女たちに静かにするように命じると、「疲れた」と御簾を下げさせた。文姫も下がるように促される。

「待ちなされ! あなたさまは夫を捕らえてどうなさるつもりか! 新羅王子へのかようなふるまい、女王は新羅への宣戦布告とみなしまするぞ」

 御簾の奥からは返答はなかった。
 下がるよりほかに手段がなく、文姫は自室に戻った。

「文姫さま……」
 侍女たちが苦しげに呻いた。
 茫然と立ち尽くし、身体を震わせている。

「殿君はまことに、皇祖母尊に捕らえられたのですか」
 文姫の表情はすさまじく歪んでいたのだろう。侍女たちは怯え、追いつめられた兎のようにうなだれている。

(皇祖母尊の策略に嵌められた)

 金春秋が捕えられたとなれば、新羅からの救出を待つしかない。あるいは釈放されるときを待つしか――だが、救助が来る前に、文姫は大海人皇子に捧げられるだろう。

 ――亡くなった寵姫とよく似た私を、代用にするつもりか。

 あまりの悔しさに、噛んだ唇から血の味がした。
 初めて皇祖母尊に拝謁した際、かれらが文姫を見て驚いていたのは、額田王という娘に似ていたためか。

 あのときから皇祖母尊は、文姫を新羅の妃として迎え入れるつもりはなかったのだ。寵姫を失った大海人皇子のなぐさみにするため、中大兄皇子ではなく、大海人皇子に嫁がせようと手配していたのだ。

 その過程で、おそらく夫の金春秋と揉めた。だから捕縛した。そういうことか。

(夫を助けなければ)
 夫の捕縛されている場所を探し、救出する。助けを待つより、おのれが動くしかない。文姫は侍女に厳しく命令した。

「どのような手段を使ってでも、殿君の居場所を調べるのじゃ。そうでなければ、私は大海人皇子に召される前に自刃する」

 ぎょっとした顔で、侍女は文姫を見た。侍女にとっても危険な任務だ。見つかれば殺されるであろう。それでも、文姫の覚悟を知ったのか、侍女は一礼をして退室した。

第6話へ続く


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